講演要旨

「大熊信行がとらえた多喜二と伊藤整」 亀井秀雄
「多喜二が描いた新しい女性像 ― リアリズムの深化にそくして」 宮本阿伎
「志賀直哉と小林多喜二の接点 ― 直哉の多喜二宛書簡などを中心に」 紅野敏郎
「多喜二の作品から読み解く戦前の日本社会」 浜林正夫
「多喜二と近代作家との接点 ― 芥川、志賀を視野において」 松澤信祐
「戦後の直哉の心に生き続ける多喜二の像 ― 『灰色の月』前後」 伊豆利彦
「大熊信行がとらえた多喜二と伊藤整」
亀井秀雄

 1922年(大正11年)、小樽高等商業学校には、教師としては大熊信行が、そして2年生の学年に小林多喜二が、1年生の学年に伊藤整がいた。後に彼らが展開した、三人三様の文学活動から逆照射して見る時、これは大変に珍しい組み合わせだったと言える。それを一種文学史的な伝説にまで作り上げたのは伊藤整だった。彼は『幽鬼の街』(『文芸』1937年8月号)で、小樽を舞台に、3人を実名で登場させ、また、自伝小説『若い詩人の肖像』(新潮社、1956年)では大熊信行と小林多喜二の交渉を、ある種の想像を交えつつ、詳細に描いている。 これが、若き日の3人の関係を物語化する仕方に、いかに大きな影響を与えてきたか。 夏堀正元の『小樽の反逆―小樽高商軍事教練事件―』(岩波書店、1993年)を見ればよく分かる。曽根博義の評伝『伝記 伊藤整』(六興出版、1977年)も、関係部分を伊藤整の回想に依存していた。

 だが、彼の回想には虚構が含まれていることに注意しなければならない。彼は、多喜二たちの同人雑誌『クラルテ』が1923年6月頃に発行され、大熊信行の詩が載っていたと書いているが、『クラルテ』の発行は1924年4月であり、大熊の詩は載っていない。また、『幽鬼の街』では、多喜二に、大熊の『マルクスのロビンソン物語』(同文館、1929年)を批判させているが、その内容を見るかぎり、伊藤整が同書を読んでいたかどうか、極めて疑わしい。

 このような結果が生まれたのは、文学研究者が大熊信行の独自な「読書行為の経済学」の検討を怠ってきたためでもある。前田愛が『近代読者の成立』(有精堂、1973年)のなかで、『文学のための経済学』(春秋社、1933年)や『文芸の日本的形態』(三省堂、1937年)における読者論に言及し、その先駆的な意義を評価した。だが、戦後、吉本隆明たちが作った、〈プロレタリア文学運動の芸術大衆化論争は、いわゆる「円本ブーム」とパラレルな現象だった〉という文学史の枠組みから出られなかったため、大熊信行に固有のテーマや理論構築にまで立ち入って検討することはできていない。

 『文学と経済学』(大鐙閣、1929年)や『マルクスのロビンソン物語』(前出)から読み取れる、大熊の初発のモティーフは、学としての経済学に固有な対象とは何か、を明らかにすることだったと思われる。彼はそれを、唯物論における「物」や、マルクス経済学における「商品」ではなく、人間の「欲望」とその充足行為に求めた。それを明らかにするために、彼は、一般に物欲(所有欲や金銭欲)から最も遠いと考えられる、例えば〈ミロのヴィーナスを実際に見てみたい〉という「純粋に」精神的な欲望を例に挙げて、しかしこの場合も、その欲望の充足は物質的現実的な条件に拠らざるをえない、と説明した。なぜなら、ミロのヴィーナスの前に立つためには、船や汽車などの交通手段を借りて、自分の肉体をそこへ運んで行かなければならないからである。ここから彼は、「『精神的』満足は『物質的』にのみ到達される」、「物質的なものに関連しない『精神的』欲望、精神的なものに連続しない『物質的』欲望などといふものは存在しない」(『文学と経済学』)という結論を導き出し、さらに抽象化して、欲望を充たすということは、ある空間的時間的条件を別な空間的時間的に変えることだ、と法則化している。

 彼によれば肉体存在としての人間は、常に空間的時間的条件に制約されているわけだが、特に彼は時間的条件を重視した。ただし、この「時間」は、商品の交換価値を決定する労働時間というマルクス主義的な「時間」概念とは異なる。彼のいう「時間」は、もっと一般的な、「1日は24時間」という意味の「時間」であって、この「時間」は全ての人間を共通に拘束しているわけだが、どのような社会もそれを増減することはできないし、蓄積することもできない。人間はこの条件のなかで、労働・娯楽・睡眠に時間を「配分」しながら生きているのである。

マルクスは生産物の分配(apportionment)を問題にしたが、これからの経済学はそれと共に、あるいはそれに先立って、配分(allotment)の問題から始めなければならない。「しからば配分と分配との概念上の根本的な相異並びにその理論的相関はどう説明されるか。

 『自由人の団体』(共同体)とさきのロビンソン(孤島の漂流者)とのあひだにおける経済秩序の根本的な相異は、前者には分配問題が存在するが後者には存在しないといふ一点にある。双方に通ずるものは配分問題であり、前者のみひとり分配問題を併有するのである。」(「マルクスのロビンソン物語」。初出は『改造』1929年6月号)。これが彼の、「配分理論」としての経済学の出発点であった。

 彼はこの理論に基づいて、読書を娯楽に位置づけたわけだが、彼によれば、一人の人間がどのような娯楽を選び、どれだけの時間を配分するかは、その人間の選択に任されている。分かるように、この観点からすれば、その人間が文学を選ぶか、科学随筆を選ぶか、あるいは「高級な」純文学を選ぶか、「低級な」大衆読物を選ぶかは、読書経済学の問うところではない。つまり文学/非文学、純文学/大衆文学というような、一種の価値判断を含んだ二項対立は意味をなさないのである。むしろ娯楽としての読書の「価値」は、映画やラジオや音楽やスポーツなどとの差異として捉えるべきであろう。このように論じた点で、彼は極めてソシュール的だったと言える。

 大熊信行がパーソナルな面で小林多喜二や伊藤整をどう見ていたかは、彼の『文学的回想』(第三文明社、1977年)でほぼ尽くされている。それも貴重な証言ではあるが、文学理論家としての小林多喜二や伊藤整をどう見ていた(可能性がある)かは、以上のような理論的観点から割り出してみる必要があるだろう。




「多喜二が描いた新しい女性像 ― リアリズムの深化にそくして」
宮本阿伎

 多喜二の描いた女性像といえば、平野謙などが、戦後の〈政治と文学論争〉のなかで、「党生活者」の「笠原」について論難をくわえたことがまず念頭にうかぶ。今日の時代において眺めれば、事実のうえでも、文学の読み方のうえでもまったく無意味な論議として色あせている。1992年「母」を描いた三浦綾子が、直後新聞のインタビュウに答えて、多喜二は女性を「雌」としてでなく、「ともに生きる仲間と見ているでしょう」と語っていたことが脳裏に残っている。階級的な作家である多喜二であれば当然だと言えなくはないが、プロレタリア文学の男性作家に限っても、「ともに生きる」という女性観を感じさせる作家はそう多くないだろう。細かな描写の一つ一つを文学は大切にしなければならないが、いまはそこを問題としているのではなく、多喜二がなぜ例えば、「一九二八年三月十五日」を女性描写から始めたかという問題を考えてみたい。非合法生活のなかで描かれた「党生活者」に、愛すべき「笠原」をふくめて、比類なき母の描写や、戦争と弾圧の時代に多数出現した時代の新しい女性像である「伊藤」がいなかったら、作品の主題は深まらず、いまになお感銘をよぶ作品とはならなかったと思う。なぜ、多喜二はそうした女性たちを描くことができたのだろうか。

 この問題を考えてゆくために、生涯的な出会いであった「田口タキ」、晩年の地下生活のなかでその生活をささえた「伊藤ふじ子」、また母親や姉や弟妹たちとの人生経緯にも触れながら、どのような女性たちを描き、そのリアリズムを深化させたか。その女性像が呼びかけてくるものは何か。多喜二の文学の形成過程をたどり、考えてみたい。




「志賀直哉と小林多喜二の接点 ― 直哉の多喜二宛書簡などを中心に」
紅野敏郎

一、多喜二は志賀直哉の作品とどのようにむきあったか。
このたび小樽高商在学時代に図書館で多喜二が志賀の「雨蛙」を読みふけり、その所感を初出の『中央公論』に書きつけた部分が発見されたので、そこを摘出、志賀文学と多喜二との接点を検出する。従来の多喜二の初期短編における志賀直哉摂取も含む。

一、両者の交流、とくに志賀が多喜二の作品を評したいわゆる「主人持ちの文学」なる発言について考察する。

一、「志賀日記」に記された多喜二及び母セキへの言及のありようにたちどまって考察する。

一、貴司山治の志賀直哉より聞き取った記録と、滝井孝作の志賀直哉観との対比を試みる。




「多喜二の作品から読み解く戦前の日本社会」
浜林正夫

1) 原体験
貧しさ、差別、監獄部屋の搾取、ペシミズム、「呪われた人」(1919年)、

2) 思想形成(小樽高商時代、1921−24年)
志賀直哉との出会い、マルクスを知る、社会科学研究会の友人たち、とくに乗富道夫、芸術と政治という問題意識、「疑惑と開拓―芸術の真生命について」(1921年)(未発表、文末に「どうにもならない一人の男」)、「芸術至上主義か、実益主義か」という悩み、「歴史的革命と芸術」(1923年)、マルクス主義の立場に立った上で芸術と革命との矛盾を解こうとする

3) 開花期(拓銀時代)

@) 1924−28年 『クラルテ』第2号(1924年)「最も偉大な人こそ、最も偉大な社会主義者でなければならない」、しかしまだ芸術と革命との矛盾に悩む、さらにエリート銀行員として行動に踏み切れない苛立ち、社会主義の勉強へ、高畠素之『マルクス主義十二講』からはじまる(1926年11月の日記)、27年3月『資本論』へ
A) 1928年―30年 28年元日の日記「思想的に、断然、マルキシズムに進展して行った。古川、寺田、労農党の連中を得たことは、画期的なことである」、この日以後日記をやめる、27年の磯野小作争議と港湾争議を応援
B) 『1928年3月15日』(1928年5月)で特高警察の実態を、『蟹工船』(1929年)で植民地的搾取と軍隊の本質を、『不在地主』(1929年)でブルジョア化した地主と労農提携のたたかいを、『工場細胞』(1930年)で近代的な工場の産業合理化を、えがく。「社会のえぐり出し」がコミュニストの芸術家の特殊性(「コミュニズムの芸術論」小樽新聞、1928年1月30日)
C) 多喜二のとらえかたはコミンテルン「32年テーゼ」の天皇制・地主・独占資本という3者構成による日本社会分析に通ずる

4) 自己批判と模索
「私は今迄自分のどの作品に対しても全力を尽くしてきたが「1928年3月15日」も、「カニ工船」も、「不在地主」も、「工場細胞」も、そして今では「オルグ」も、私には二度と振り返って見るもイヤな野糞でしかない」(『四つの関心』(『読売新聞』1931年)、弾圧と抵抗という画一的な描き方、もっと多様で具体的な人間を通して時代を描く、ショーロホフの『静かなるドン』のような悠長なプロレタリア作品を・・・




「多喜二と近代作家との接点 ― 芥川、志賀を視野において」
松澤信祐

 生誕百年の今年、未発表書簡や新資料の発見が続く小林多喜二を、これを機に、従来のプロレタリア作家という狭い枠をはずして、近代文学の大きな流れの中に位置づけ、その独自の文学的意義を明らかにしようとする動きが出てきた。

 多喜二は、外国文学では、ドストエフスキー、ストリングベリー、フィリップなど、日本文学では、石川啄木(短歌)、志賀直哉、有島武郎、菊池寛などをはじめ、おびただしい作品に接して、日記帳や覚え書きノートに丹念な読後感を記して、自分の創作の参考にしていた。漱石の「道草」も、優れた箇所に線をひいて勉強していると日記に書いている。

 そのことを、今回発見された大熊信行宛て書簡や雑誌書き込みの新資料は、一層生々しく伝えている。  志賀直哉との関係については、他の講師が言及するで省略するが、直哉との信頼関係が早い時期から始まっていたことや、志賀も多喜二の文学的才能を認め、雑誌社などへの紹介を心がけていたことなどが明らかになった。

 芥川龍之介との関係については、大熊信行著『社会思想家としてのモリスとラスキン』を仲介として、多喜二との身近な接点が明らかになった。この本の出版を喜ぶ多喜二書簡(2月6日消印)が出された直後、芥川がこの本の贈呈への礼状(2月17日)を大熊に出している。芥川の卒論は「ウィリアム・モリス研究」である。しかも、この三ヵ月後の5月20日に、芥川は改造社主催文芸講演会で小樽に行く。その歓迎会の宴会を準備したり、駅まで見送ったのが多喜二であった。大熊信行の話がどちらかから出ていたらと惜しまれる。

 多喜二は、芥川の「一塊の土」の好意的な作品評を覚え書きに記しているが、今回発見の書き込みには、「三右衛門の罪」の心理描写に注目して、「芥川らしい、頭のいいトリックをもって終えてゐる。然し、しっかりしてゐる」と、これも好意的に評価している。当時のプロレタリア文学陣営(特に『種蒔く人』同人たち)から、高踏派知識人として冷淡に扱われていた芥川を、多喜二は正当に評価しているのである。他にも、多喜二が書き込みをした大杉栄「正義を求める心」のクロポトキン「青年に訴ふ」は「若き日の芥川も感激して読んだものであった。

 多喜二と近代文学との結びつきは深いものがあることを実証した貴重な資料といえる。




「戦後の直哉の心に生き続ける多喜二の像 ― 『灰色の月』前後」
伊豆利彦

 「灰色の月」の末尾に「昭和20年10月16日のことである」という日付が記されているのはなぜか。

 当時の日本は食糧不足が深刻で、この冬にかけて多数の餓死者が出ると予想されていた。家も工場も焼かれ、両親も身寄りも失って、餓死寸前の状態で、どこへ行くというあてもなく彷徨する少年工は、敗戦日本の現実を象徴するものだった。戦後2カ月のこの現実を、直哉は歴史に刻みつけて後世に残しておきたかった。政治犯が釈放され、出獄歓迎の人民大会が開かれたのは10月10日、治安維持法が撤廃されたのは10月15日だった。

 この頃、直哉はしきりに多喜二のことを思い浮かべていた。

 この10月16日の朝日新聞には、<小説の報復に拷問><同志作家が語る真相>という見出しで「小林多喜二はこうして殺された」という江口渙の談話が報道されている。1931年11月、きびしい監視の目をくぐって奈良に直哉を訪ね、直哉宅に一泊している。二人が顔を合わせたのは、生涯にこの時ただ一度だけであったが、志賀は多喜二にいい感じを持ち、それを一生忘れることはなかった。多喜二がなくなったとき、直哉は日記に<アンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしという気する、>と書いた。

 多喜二が直哉を訪ねたのは、通り一遍の気持からではなかった。1930年に検挙され、1930年8月から翌年1月まで豊多摩刑務所に収容されたが、獄中であらためて志賀に対する熱い心を回復し、初心にかえって出発し直そうとした。 直哉の多喜二に対する感情もいい加減なものではなかった。『文化集団』(1935年11月)に掲載された「志賀直哉氏の文学縦横談」でも「たいへん優れた作家だと思っている。また人間としても実にいい人間だと思っている」と語り、戦後、「定本小林多喜二全集」の推薦文を書いたときにも、多喜二が訪ねてきた時のことを思い起こし、「あんな風に死んだのはそんなことがなければ今でも生きていて、自由に仕事が出来たのにと思うと非常に 残念な気がする」と述べている。

 二人を結びつけたものを生き方の問題、文学の問題として検討したい。

白樺文学館 - 小林多喜二の書簡 常時展示中

時代を撃て・多喜二