第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

<第一席>

中日プロレタリア文学の比較
――『蟹工船』と『包身工』の共通点について

A Comparison Between Chinese and Japanese Literature
----Focus on the similarities between Crab-Canning Ship and Baoshengong

中日无产阶级文学比较
――关于《蟹工船》和《包身工》的共同点

大学院2年 王树义(王 樹義,おうじゅぎ,Wang Shuyi,女性)

はじめに

日本のプロレタリア文学と言うと,小林多喜二のことが先ず頭に浮かんでくる。小林多喜二は日本傑出のプロレタリア文学作家として,30年足らずのごく短い生命で日本文学史上だけでなく,世界のプロレタリア革命文学史上でも輝かしい一ページを残した。代表作『蟹工船』は,日本の「植民地における資本主義侵入史の一頁」であり,植民地における原始的搾取の典型を未組織労働者の成長と結合させて描いた日本プロレタリア文学における画期的な作品であり,もう一つの中期代表作『一九二八年三月十五日』と一緒に当時の国際革命作家連盟機関誌『世界革命文学』に翻訳・掲載された。
30年代中国文壇と革命活動の活躍者の一人であった夏衍(沈端先)は,左翼作家と革命家として,当時の文芸と革命活動に身を投じ,多くの劇作作品を書き上げると同時に,ロシア,日本,それにドイツなどの文学作品や理論著作を数十冊も翻訳し,外国作家に関する評伝や評論を多く書き残した。創作『包身工』は中国ルポルタージュ文学の模範作品として1936年6月に『光明』創刊号に発表され,日本帝国主義・植民主義者が中国の封建主義と結び付けて中国労働者を搾取する過酷な実態を描いた。政治性と芸術性が高度に統一されたこの作品は当時に大きな反響を起こし,現代中国文学史上においても重大な意義を持っている。
『蟹工船』と『包身工』を比較して読むと,この二つの作品に幾つもの共通点があることが発見できる。本文では主に作品の人物や時代背景、典型事件などの面をめぐって2作品の共通点について論じてみたい。

1、人物設定と作者の生活体験との関係

『蟹工船』と『包身工』はともに社会のどん底に生きている労働者たちを対象として描かれた。『蟹工船』では北洋漁業の蟹工船を舞台に,海上の劣悪の自然環境と戦いながら資本家の残虐の下で蟹漁し,缶詰に加工する貧困極まる労働者たちの「蛆虫」的生存が描かれた。これら労働者の中に14~15歳の貧民窟の子供もいるし,炭鉱で命拾いした坑夫や季節に応じて出稼ぎに出る季節労働者もいる。また,浅川監督や雑夫長など資本家の手先としての残忍無道な姿も強く目に映る。
『包身工』では上海の楊樹浦福臨路にある三井系の紡織工場を舞台に,飢え死に瀕する農民子女が都市まで騙され,連れられてきて,包身工(所謂試用工,養成工)となり,そこで搾取され,虐待され,更に人身の自由も剥奪される悲惨な有様が描かれた。作業現場は屋内であったが,包身工たちは毎日12時間も騒音,塵埃と湿気に満ちている環境の中で働かされて,肺病,脚気と皮膚病の罹病危険に直面している(罹病しない人が殆どいない)。一方では帝国主義資本家の縮図としての「東洋婆」(日本人女性資本家),包身工を虐める資本家手先の「拿莫温」(職工頭),外国帝国主義と結託して包身工を搾取する帯工(包身工の持ち主。農民を騙して彼らの子女を農村から連れてきて,外国資本家から借りている工場で金儲けの機械として働かせる所謂親方)及び抄身婆(女工の身体や持ち物を検査する女),蕩管(見回り),打雑(雑役夫)等,最も下層にいる帝国主義,資本主義の手先の獰猛な姿も,ありありと誌上に現れた。
2つの作品では何れも労働者を集団として扱い,特定の人物が設定されていなかった。『蟹工船』では男性労働者を対象に,学生上がりや吃りの漁夫や炭山から来た坑夫や芝浦の漁夫が描かれたが,それは労働者集団の中のただの一分子であるに過ぎない。これはプロレタリア文学は集団の文学である以上,個人の性格や心理はなくなって行くべきものであり,個人としての性格や心理を超えた階級としての集団的な心理や行動が描かれなくてはならないと,その時の多喜二が考えたからであろう。
一方『包身工』では紡績工場で働く女工を題材に,「芦柴棒」(棒のように痩せすぎる人に対する呼び方),「小福子」それに,ある「名前の思い出せない」包身工が例として挙げられた。夏衍が正にこの,「名前の思い出せない」包身工によって無数の包身工のことを暗示させ,「名前の思い出せない」包身工の運命によって包身工全体の悲惨な運命を象徴させたのではないだろうか。
小林多喜二と夏衍はともに貧しい家に生まれた。多喜二は1903年に秋田県の貧農の子として生まれ,4歳の時に北海道に移住し、後はパン工場を経営している伯父の家に渡された。工場で働きながら勉強を続け,深夜になると近くにいる土方たちの悲惨な叫び声をしばしば耳にした多喜二は,このような環境の中で子供時代と青少年時代を送った。この生活体験が多喜二のプロレタリア思想の形成と創作に強い影響を与えた。『蟹工船』の中の非人間的な搾取と虐待の場面についての描写は,何れも作者のブルジョアジーに対する強い憤懣と下層プロレタリア大衆への深い同情の表れであると言えよう。
夏衍は1900年に貧しい秀才家庭の末っ子として生まれた。3歳の時に父に死なれ,6人の兄弟が母一人によって養われていたため,生活が益々貧しくなり,自家の力では中学校にも入れないほどであった。小学校を卒業して,紺屋で見習い工として半年働いた後,小学校校長の推薦によってはじめて無料で中学校に進学できるような様子であった。このような経験と夏衍が少年工の生存状態に深い関心と同情を持つこととは無縁ではないだろう。敵の追跡・逮捕を避けるために上海にある小さなアパートに閉じこもった間に,夏衍はいよいよ工場(とは言っても監獄みたいな紡績工場)で働き,社会の一番どん底に生きている包身工たちの奴隷のような生存実態を反映する『包身工』の創作に取り掛かったのである。

二、 時代背景と資本主義に対する暴露

『蟹工船』が書かれた時期はちょうど日本に厳しい経済的恐慌が起こっていたころである。20年代の日本社会を背景に,「博光丸」という蟹漁船で奴隷的な労働を強いられる労働者の海上生活を題材として描いた。多喜二は蔵原惟人に宛てた手紙の中で,この作は「蟹工船」という,特殊な一つの労働形態を取扱っている,が,蟹工船とは,どんなものか,ということを一生懸命に書いたものではないと語った。更にその次に,これは植民地,未開地に於ける搾取の典型的なものであるということ。東京,大阪の大工業地を除けば,まだまだ日本の労働者の現状に,その類例が80パーセントあるということである。更に,色々な国際的関係,軍事関係,経済関係が透き通るような鮮明さで見得る便宜があったからであると語った。これらの言葉で示したように,『蟹工船』は資本家が労働者に対する原始的な搾取の典型を書き出しただけでなく,帝国海軍を代表する帝国軍艦が資本家とは一つ穴の狢であることなどもむき出しにしたのである。
多喜二は『蟹工船』を書くために蟹漁船の労働者と漁業協会を何回も訪ね,徹底的な調査を行った。北オホツックの海へ蟹漁するのが「地獄」へ行くのと同じようなことであり,「おい,地獄さ行ぐんだで!」という冒頭の漁夫の言葉のとおり,地獄へ行く覚悟,死ぬ覚悟がなければこんな仕事にはどうしても耐えられないのである。しかし,いくら働いても食えなくて,土地から飛ばされて,市に流れてきた百姓と都市の失業者たちは,季節になると相次いで船に乗ってしまう。それに蟹工船だけではなく,いろんな所でこんなことが起こっていたのである。多喜二は作品の中で次のように語った。
北海道では,字義通り,どの鉄道の枕木もそれはそのまま一本々々労働者の青むくれた「死骸」だった。築港の埋め立てには,脚気の土工が生きたまま「人柱」のように埋められた。……鉱山でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯が出るか,どんな飛んでもない変化が起こるか,それを調べあげて一つの確針をつかむのに,資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を,乃木軍神がやったと同じ方法で,入れ代わり,立ち代り造作なく使い捨てた。鼻紙より無造作に! 「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が,坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にしていった。
蟹工船では漁夫たちは囚人のように働かされ,「蛆虫」のように豚小屋そっくりの,胸がすぐゲエと来そうな臭いに満ちている「壷糞」に住んでいた。「貴様等の一人,二人が何なんだ。川崎一艘取られてみろ,たまったもんでないんだ」,「いやしくも仕事が国家的である以上,戦争と同じなんだ。死ぬ覚悟で働け!馬鹿野郎!」という監督の話や,「……非道え奴だ。ちゃんと大暴風になること分かっていて,それで船を出させるんだからな。――人殺しだべ!」という漁夫の話や,それに「所が,浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」という無電係の話から,資本家が労働者を豚のように扱い,労働者の命を鼻紙同等に軽視し,労働者を金儲けの道具として非人間的な虐使を極めることを反映した。しかし,「日本帝国のため」と言う名義と結び付けて労働者を煽動,利用しながら,これらの蛆虫や豚のような労働者から,資本家はどれぐらいお金を儲けられるだろうか――。
漁夫たちの一夏の働きにより,「金持ちはこの船一艘で純手取り四,五十万円ッて金をせしめるんだ」!!!
蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは,丸ビルにいる重役には,どうでもいいことだった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰り,金利が下がって,金がダブついてくると,「文字通り」どんな事でもするし,どんな所へでも,死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて,船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船,――彼らの夢中になるのは無理がない。
多喜二はこれらの描写を通して,資本主義が植民地に対する原始的な搾取の醜悪な本質と労働者に対する残酷さを容赦なく暴露したのである。
『包身工』が書かれたのが1935年である。半植民地半封建の20~30年代の中国社会では,軍閥混戦と戦乱が所々に起こり,農民が耕すことさえできなくなり,農村経済が激しく崩壊し,大勢の農民は都市まで押し寄せてきた。1935年前後になると,日本帝国主義は経済,政治,軍事の各方面において,中国に対する侵略を日増しに強めてきた。東部の紡績を中心として,上海では数え切れないほどの包身工が働いていた。帝国主義資本家と帯工の二重搾取を受けている包身工たちは体は帯工に属し,やるかやらないかの自由もなく,人身さえ不自由であり,工場の外とは一切の連絡も取れないでいた。「缶詰の様にされた労働力」は空気との接触で変質する危険性もなく,「安全に」保蔵され,自由に使用されたのである。包身工の賃金は男性労働者の1/3にも及ばないが,男性にしかできない仕事をやらされていた。
包身工についての詳しい資料を手に入れるために,夏衍は4月から6月にかけて毎朝3時ごろに起き,工場で働いていた友達の助けで包身工の間に紛れ込んで工場に入ったことも2,3度ある。それで夏衍は詳しくて真実な資料を手に入れることができたのである。しかも,これらの資料は少しも虚構・誇張されることなく,ありのまま作品の中に採用された。
「芦柴棒,早くご飯を作れ! 糞! 未だ寝ているのか,この豚奴!」
広さ7尺,長さ12尺の部屋に16~17人もの包身工が雑魚寝をしている。汗,糞の臭いと湿気が溢れる空気の中に威勢のあるこの叫び声が響いている。包身工たちはつつかれた蜂の巣のように騒ぎ出し,欠伸をしたり,嘆いたり,叫んだり,人の靴を履き違えたり,人の体を踏んだり,人の頭から1尺も離れていない所で小便をしたりするのがいる。成年の女性としての恥ずかしさは,これら「豚奴」と呼ばれる人間の間で既に鈍感になったようである。半裸でドアを開けたり,ズボンを提げながらおまるを争ったり,体の向きをちょっと変えるだけで公然と男の前で着替えをしたりするのだから。
これらの描写を通して,包身工が受けた物質と精神的な圧迫の悲惨さが窺える。これが即ち中国にある日本帝国主義の紡績工場を支える包身工――鎖のかかっていない奴隷の人間像である。夏衍は作品の中でわざと「十一年前の顧正紅事件(1925年の5・30運動),特に五年前の一二・八戦争(1932年の12・8事件)を経てから,東洋工場がこんな特殊な,廉価な『機械』に対する需要は急に増えてきた。……彼らは「外の労働者」(普通の自由労働者)の代わりにこのような廉価で結合力のない包身工を大量に採用するようになった。」と指摘した。このような包身工に対する無残な搾取と圧迫により,日本帝国主義の紡績工場は「飛躍的な発展」を遂げたのである。
1902年に創立されたばかりの時は工場1軒,スピンドル20,000個の規模であったが,30年後になると紡績工場6軒,紡織工場5軒,スピンドル250,000個,織機3,000台,労働者8,000人と資本金12,000,000元の規模に達した。
これは作品の中で挙げられた福臨路に位置している東洋工場の例である。そこからは,外国資本家が包身工からどれだけのお金を儲けたかが分かる。

三、 事件描写と作品に燃え上がっている革命への信念

『蟹工船』は合わせて10章からなるが,『包身工』は僅か8000字ぐらいしかない。しかし,紙幅の多少にもかかわらず,2人の作者の,この2つの作品では何れも搾取者の残忍極まる姿と労働者の悲惨な境遇が描き出され,労働者は必ず立ち上がり,解放を求めるという信念も作品を通して反映された。
『蟹工船』では僚船「秩父丸」の沈没事件が描かれた。S・O・Sの無電を受信しながらも浅川はそれを救助しようとする船長を止め,400~500人の労働者もいる「秩父丸」の沈没を平気で座視していたのである。
あんなものにかかってみろ,1週間もフイになるんだ。冗談じゃない,1日でも遅れてみろ!それに秩父丸には勿体無い程の保険がつけてあるんだ。ボロ船だ,沈んだら,かえって得するんだ。
一方は400~500人の命,もう一方は夢中になって追求しようとするお金。しかし,資本家の目にはお金のほかにはもう何もなく,人間の命なんかはなんでもないものであり,一枚の紙片よりも軽いものである。また,作品の中で漁夫や雑夫が虐待された場面も幾箇所も描かれた。
こっちから見ると,雨上りのような銀灰色の海をバックに,突き出ているウインチの腕,それにすっかり身体を縛られて,吊し上げられている雑夫が,はっきり黒く浮かび出てみえた。ウインチの先端まで空を上ってゆく。そして雑巾切れでも引ッかかったように,しばらくの間――20分もそのままに吊下げられている。身体をくねらして,もがいているらしく,両足が蜘蛛の巣にひっかかった蝿のように動いている。……ウインチに吊された雑夫は顔の色が変わっていた。死体のように堅くしめている唇から,泡を出していた。
『蟹工船』では未組織な労働者を取り扱っていると,多喜二は蔵原惟人宛に書いた手紙でこう語った。これらの未組織労働者は年齢や経験のそれぞれ違った人から成っている――北海道の奥地の開墾地や鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや,各地を食いつめた「渡り者」や,酒が飲めれば何もかもなく,ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして,こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが,雇うものにとって,この上ない都合のいいことだった。
「この上ない都合のいいことだった」のは,このような労働者には確かに結合力がなく,反抗意識も弱いからである。現に彼らの間には,僅か2つの安い煙草で仲間を売りさえしたのもいるのではないか。しかし,まさに資本家の無残な虐使と生への強い渇望がこれらの地獄に生きている未組織労働者を組織させ,団結させ,更に彼らをストライキにまで迫ってきたのである。「懐中電灯を差しつけられたように」,これらの労働者は既に目を覚まし,自分達の力と団結の重要さをはっきり意識するようになった。
今迄「屈従」しか知らなかった漁夫を,全く思いがけずに背から,とてつもない力で突きのめした。突きのめされて,漁夫は初めて戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力だ,ということを知らずに。
――そんなことが「俺達に」できるだろうか? 然し,成る程できるんだ。
そう分かると,今度は不思議な魅力となって,反抗的な気持ちが皆の心に喰い込んで行った。今迄,残酷極まる労働で搾り抜かれていた事が,かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば,監督も糞もあったものでない! 皆愉快だった。一旦この気持ちをつかむと,不意に,懐中電灯を差しつけられたように,自分達の蛆虫そのままの生活がありありと見えてきた。

諸君,まず第1に,俺達は力を合わせることだ。俺達は何があろうと,仲間を裏切らないことだ。これだけさえ,しっかりつかんでいれば,彼奴等如きをモミつぶすは,虫ケラより容易いことだ。――そんならば,第2には何か。諸君,第2にも力を合わせることだ。落伍者を一人も出さないということだ。一人の裏切者,一人の寝がえり者を出さないということだ。たった一人の寝がえりものは,300人の命を殺すという事を知らなければならない。……

俺たちには,俺たちしか味方が無えんだ。

殺されたくないものは来れ!

初めてのストライキは失敗に終わったにもかかわらず,彼らはもう一度立ち上がり,闘争を続けていった。これは正に,小林多喜二のプロレタリアートたちに対する熱望であろう。
『包身工』の中では「芦柴棒」,小福子などが挙げられた。「芦柴棒」は15,16歳のある女の子で,手足が葦のように痩せているので皆にそう呼ばれるようになった。余りにも痩せすぎて,仕事が終わる時,工場のドアで抄身(身体検査や持ち物検査をする)の役目を果たす抄身婆までも彼女の体に触れるのを不気味に思い,「髑髏と変わらない彼女の体に触れると悪夢をみるよ」と言ったぐらいである。ある寒い朝,「芦柴棒」がひどい風邪で起きられなくなり,声を出す力さえなくなった。然し,こういう起きられない「芦柴棒」に対して,打雑は部屋の隅っこに蹲っている「芦柴棒」の髪の毛を一生懸命に摑まえて彼女をともえ投げのように地面にたたきつけた。が,すぐ手をやめた。何故かというと,「芦柴棒」の余りにも尖った骨で手の指が痛くなったからである。打雑が激怒し,傍でテーブル拭きをしている包身工から一桶の冷水を奪いとって,全部「芦柴棒」の体に浴びせた。寒風が吹いた冬の日にこう言うひどい目に遭った「芦柴棒」は反射的に跳び上がったのである。それでドアの所で歯を磨いている女将さんが笑いながら次のような言葉を吐き捨てた。
「よくごらんよ! 仮病に違いない。跳び上がることができるんだから。桶一杯の冷水だけですぐ治ったんじゃないか。」
これが包身工の悲惨な運命――豚のように暮らし,泥のように踏みつけられ,血と肉で作られた「機械」である。一人の包身工をたたき殺すことは一匹の蟻を踏みつけるのと同じぐらいでしかないのだ。
前にも触れたことのある,「名前の思い出せない」包身工にはこんなことが起こったのである。彼女は工場の生活に耐えられなくて,こっそりと人に頼んで両親に手紙を書き送り,毎日親が迎えにくるのを待ちわびていた。しかし,運悪く返信が帯工の所に届けられてしまった。ある日,仕事から帰ってきた彼女は蹴られ,殴られた後,一晩じゅう廊下に吊るされた。彼女の鮮血と悲惨な呻きで包身工たちはみんな身震いを覚え,暗夜の中で息を殺しながら目を大きくして自分の運命に嘆息した。
一見,これらの事実は冷静に描かれたように見えるが,もっと深く吟味すると,作者の冷静な態度に潜んだ熱くて熾烈な感情が体得できる。夏衍は『包身工』の中で,包身工たちの間には「光もなく,希望もなく,……法律もなく,人道もない」,「表面から見ればここには悟りもなく,団結もなく,反抗もない」,「圧迫と搾取を強いられたこれらの生物の間では火起こしの火種さえ消えたようである」と書いた。しかし,それと同時に夏衍は,「いくら『機械』だとはいっても,やはり血と肉で作られた人間である。忍耐の限界を超える時,彼らは自然と長い間に忘れられてきた人間としての持つべき力を目覚めさせるのである。たとえ愚鈍な『奴隷』であっても,矢が一束では折れないものであるという道理を体得できる時もある」とも書いた。「黎明の来るのは所詮阻むことのできないものであり,ソロー(Henry David Thoreau 1817-1862)がアメリカ人に枕木の下の死骸に用心しようと注意したように,私もこれらの殖民地主義者に,スピンドルの上で呻いている亡霊に用心しようと注意したい」と夏衍は作品の最後にこう書いた。ここでの「黎明」は明るい社会制度の誕生の示唆であり,包身工たちが必ず解放と自由を獲得できるという作者の強い信念を示したのである。

おわりに

『蟹工船』が日本で発表された数ヵ月後,夏衍は「左聯」(中国左翼作家連盟)機関誌『拓荒者』創刊号(1930年1月)に,小林多喜二と『蟹工船』について紹介した。これが中国での『蟹工船』についての最も早い評論の一つである。夏衍は『蟹工船』の発表を「確かに日本プロレタリア文学史上の画期的な事件である」,『蟹工船』を「プロレタリア文学の傑作である」と評し,「大胆に推薦」しようとした。1983年に83才の高齢になった夏衍は,『小林多喜二を記念する』という論文中で,「一人の革命家の戦闘生涯は,全世界革命人民の学ぶべき手本であり,一人の革命作家の優秀な作品は,全世界の革命作家と人民の共同の精神的財産である。偉大なる共産主義闘士,優秀なプロレタリア作家である小林多喜二は正にこう言う世界的な影響力を持つ革命家と作家の一人である。」と述べ,また「我々は小林多喜二を記念する。我々は中日両国作家と両国人民が団結を一層に強め,日本における軍国主義の復活をともに防止し,中日両国人民が世世代代まで友好に付き合うために力を尽くしたい。」と語った。
小林多喜二が特高警察に虐殺されてからはすでに73年が経った。夏衍も1995年に北京で逝去した。ここで多喜二が殉難した際に魯迅が中国の作家を代表して送った弔電の中の言葉を引用したい。
我々ハ知ッテ居ル,我々ハ忘レナイ。
我々ハ堅く同志小林ノ血路ニ沿ッテ,前進シ握手スルノダ。
『包身工』は,正に『蟹工船』を書き残した先駆多喜二の血路に沿って前進する夏衍が,同志と肩を並べて戦った証の一つであると言えよう。
 
参考文献: 
1.『小林多喜二全集』(新日本出版社 1982年版)
2.張如意監修『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』(東銀座出版社 2006年)
3.分銅惇作編『近代小説鑑賞と研究』(東京堂出版社 1993年)
4.季羨林編『簡明東方文学史』(北京大学出版社 1987年)
5.会林 陳堅 紹武編『夏衍研究資料』(上,下)(中国戯劇出版社 1983年)
6.王立明『夏衍与外国文学』(『錦州師範学院学報』 2000年1月 第22巻 第1期)
7.劉春英『三十年代中国左翼作家的小林多喜二認識』(『日本学論壇』2004年3期) 
8.喬福生、朱梁卿、趙賢州等編『中国現代文学作品選読』(上海外語教育出版社 1981年)

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[2007/3/9]

白樺文学館 - 小林多喜二の書簡 常時展示中

時代を撃て・多喜二