第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

小林多喜二と魯迅
――相異の国情、同様の文化戦士

日本語学部 院生1年  李 乔(李 喬,りきょう,女性)

まっ蒼な唇、まっ蒼な頬、こめかみと顔面に突き破られた傷が真っ黒い血のアナとなっていた。衣服は紙のように皺になり、ぼろぼろに引き裂かれていた。これが人間の皮膚であろうとは、錆び鉄のような隙間なく紫黒色の喉から胸が現れた。喉には深く肉に食い入った二条の縄の痕がある。手首にも、足首にも縄の痕。両手は捻じ曲げられたまま冷え硬まって、もう真直ぐに戻すこともできないのである。(鹿地亘、「死の日の記録―」金沙社 記念号に寄せて)
これは小林多喜二遇難の当日、一番仲良しの同志鹿地亘(かじ・わたる)が書いた記録文である。この悲惨な場面は、小林多喜二の母にとって、弟にとって、相当なショツクになるに違いない。当時の幾多の革命戦士にとって、幾多の母と弟にとって、非常に悲しいのではないかと思う。貧しい労働者と農民たちに愛情を持っている小林多喜二;平和、自由と解放を追求している小林多喜二;家族に愛情を持っている小林多喜二は、この悲惨な場面でどうしても強いられてこの世を離れた。その時、中国の文壇を代表して,魯迅が心を込めた弔電を送った。以下は電文の内容である: 
         
  日本ト支那トノ大衆ハモトヨリ兄弟デアル。資産階級ハ大衆ヲダマシテ其ノ血デ界ヲエガイタ、又エガキツツアル。併シ無産階級ト其ノ先駆達ハ血デソレヲ洗ツテ居ル。同志小林ノ死ハ其ノ実証ノ一ダ。我々ハ知ツテ居ル、我々ハ忘レナイ。我々ハ堅ク同志小林ノ血路ニ沿ツテ、前進シ握手スルノダ。

 この弔電を読み、魯迅と小林多喜二の間にどういう関係があるかと私はよく考える。もちろん、魯迅と小林多喜二はナシヨリストテイクナな感情をもっている原因以外、きっと何か隠れた原因があると推定される。以下は私の個人的な考えである。
  第1:作品は自分の真実の生活の影があり、作品の主人公は大体下層労働大衆である。これは小林多喜二と魯迅が、どうして同じ立場で文学を利用して戦うことができたかの原因だ。小林多喜二は明治36年秋田県北秋田郡の貧農の家にうまれた。その時は彼の家は食うことができず、両親は土方や行商をするが、それでも小作料を払うことができないで、一家は北海道へ流れていった。彼が幼い頃、家計のために、母は商売をして、父は仕入れたパンを土方に売り歩いた。14歳の時自分でも学校へ通いながら、伯父のパン工場で働いた。貧しい生活の中で、小林多喜二は民衆の苦しみと屈辱感を深く感じさせられた。その感情を持っていたからこそ、小林多喜二は[蟹工船]と[工場細胞]などのすばらしい作品を書くことができた。
小林多喜二と同じ時代の魯迅は、小さい時、家庭条件は豊かであった。13歳の頃、祖父が刑務所に入ったせいで、避難のために、親戚の家へ行かざるを得なかった。後は、父の病気が悪くなるにつれて生活は苦しくなった。長男である魯迅は薬局と質屋をよく出入した。身の周りの人に軽蔑と侮辱と受けているうちに、魯迅は社会の冷酷さを強く感じさせられた。父は病気治療のために、この世から去ってしまった。このことをきっかけに、魯迅は中国の社会、文化、世相について考えはじめた。魯迅の有名な小説[薬]は魯迅本人の経歴を踏まえてできたことと皆に知られている。[孔乙己]、[狂人日記]、[故郷]など、有名な小説の主人公は魯迅自身の周りの人が対象になった。
第2:小林多喜二であれ、魯迅であれ、筆を武器に、現実を無情に批判し暴露することがよくできた。小林多喜二の時代は天皇制ファシズムの時代であって、政治的弾圧が厳しかった。それに、当時の農村は不景気と凶作により貧農の生活は非常に苦しくなった。以下は「失業貨車」のそれについての描写である。
「身体を動かすと腹が減る。――然し、寒いので、ジッとしていられない。皆は未だ戸の開かない「職業紹介所」の前でしきりなしに足踏みをしている。……然し「職業紹介所」には前よりも沢山の失業者が集まってきた。暮が迫っているし、どうして年を越していいかわからない! それに金を解禁したとかしないとかで、急に物価が上がった、それも「米の野郎」から一番先に上り出した、これで黙っていたら「くたばる」ばかりだ! それに持ってきて、戦争が始まってからは、市役所がすっかりそっぽを向いてる!」
  「警官がつくようになっても「職業紹介所」で、皆がワイワイした。誰か一人が大声を出し、そんなことをしゃベると、真っすぐ検束された。誰かが検束されると、皆はそれを羨ましそうに見送った。―――なにより第一に三度三度の飯が食えるし、今迄軒の下や公園の隅っ子にごろ寝をしていたものは、ちゃんとした室に毛布に包まってねれる。
それに加えて、北海道の奥地は殆んど収穫皆無という凶作なので、冬の間の仕事を見つけるために、百姓たちがドンドンO市に出てきた。それが殆んど有りもしない仕事をうばいあった。そういう連中が「失業貨車」の空きに入れてくれと、市役所に押しかけていった。市長と警察署長が腕を拱いてしまった。「失業貨車」にお粥の寄付をしていた市の金持ちが、ちっともその効果がないので、とうとう断ってきたのである。市でもどうしていいか、ほとほと持てあましてしまった。お粥が出なくなると、貨車の中が騒ぎ出した。そのことがあって、初めて皆は、市が本当に自分たちを救済してくれるために「失業貨車」を仕立ててくれたのではなくて、ジッとさせて置くためのごまかしだったことがわかった――それも、お粥たった一杯で!」 
  農民たちは失業のせいで、検束されることを羨ましくて、その理由は毎日飯が食える、毛布に包まって寝れることである。多くの人は最初はお粥たった一杯で、最後はお粥さえなくなった。
この現実の下で政府が農民たちに戦争が始まったら景気が出ると伝えようとした。この原因で社会の主流と民意も侵略戦争を支持するようになった。この現状に対して、小林多喜二は反戦平和と国際主義の旗を掲げて、真正面から欺瞞に満ちた戦争宣伝を暴露して、正義の立場に立って、文学作品や評論などを利用して、日本の民衆に戦争の真相を伝えようとしたのである。三・一五大弾圧に直面して、小林多喜二は現実を無情に批判し、「このことこそ書かなければならない。書いて、彼奴等の前にたたきつけ、あらゆる大衆を憤激させなければならない」と思った。小林多喜二は逮捕された労働者や組合員たちに人間的感動を与えられた。その時、何かの啓示を受けたように一つの義務を感じた。小林多喜二は、この残虐な権力犯罪を告発することによって、残虐な権力の前に命をかけて、プロレタリア文学の最先頭に立つ決意を新たにしたのである。
  魯迅の生きた時代は中国が非常に悲惨な状況の時代であった。外から見ると、当時の中国はドイツ、イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、日本などの帝国から植民地化され、まるで外国の奴隷のような状態であった。内から見ると、中国は長期にわたって落後の封建制度の統治を受けていた。阿Qという人の精神をもっている国民は多くて、自分の同胞を自分の前で殺されても、人々は無神経である。沈黙の国民の霊魂を喚起するために、魯迅は医学をやめて、文学を創作し始めた。魯迅は「孔乙己」を書くことによって、封建教育である科挙制度を批判した。この小説において、描いた「孔乙己」という「没落した封建知識分子、科挙制度の犠牲者」の形象は完璧に近いと思う。「孔乙己」は、何度も科挙に失敗している落ちぶれた「封建知識分子」であった。このような彼は民衆の目から見ると、からかいの対象でしかない。民衆は孔乙己を「賞玩」と[慰安]の対象にして陽気に快活にからかう。「食人」の社会の底辺がさりげなく提示されていた。魯迅は孔乙己のよくない性質を指摘しつつも、彼が好人物であることを具体的に描き出し、たとえば、孔乙己は子供に対する態度から見ることができる。中国語で「横眉冷対千夫指,俯首甘為孺子牛」まさに魯迅の人格の描写である。魯迅は当時の白テロをものともせずに、自分の生命の最後まで頑張った。
第3:小林多喜二と魯迅は真実の言葉で現実を批判しても、それぞれが希望をもっていることがみられる。小林多喜二は「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、一番本当に光のありがたさが分かるんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ」。これは小林多喜二が恋人・田口タキへ宛てた手紙である。小林多喜二はいつか光が着くと信じた。田口タキ自身が売淫婦になりたくなかったことを小林多喜二は知っていた。当時の日本は失業者がいっぱいであった、生活のために、弱者の田口はそんな仕事をせざるを得なかったのである。小林多喜二は政府の制度のせいで、下層労働農民が苦しい生活をしていると考えた。
以上に見てきたように、小林多喜二は自分の幸福を祈るだけでなく、自分と田口のような下層労働人民の幸福の生活を願った。一方、魯迅の文学作品の中で、「希望」という言葉は結構な位置を占めていると思う。魯迅は「吶喊]の[自序]に希望についての記述している。以下は魯迅と金心異の会話である:
魯迅「仮に、鉄の部屋があるとする。窓はひとつも無いし、壊すことも絶対にできない。中には熟睡している人が大勢いる。まもなく窒息して、皆死んでしまうだろう。だが、昏睡状態からそのまま死へ行くのだから、死ぬ前の悲しみは感じない。今君がどうせ助かりっこない臨終の苦しみを与えることになるが、それでも君は彼らにすまないとはおもわないんだ。」
金心異「然し、数人が起きたとすれば、その鉄の部屋を壊す希望が絶対にないとはいえないんじゃないか?」
魯迅「そうだ。私はもちろん私なりの確信は持っているが、しかし希望という事になれば、これは抹殺はできない。なぜなら、希望は将来にあるものであるから、絶対に無いという私の証明をもってして、あり得るという彼の説を論ずることは不可能だからだ。」この会話の内容をみると、魯迅は労働人民が反抗の意識を喚起するという希望をもってきた。当時の中国は確かに鉄の部屋のようになった。魯迅はこの比喩をつかって、中国民衆の精神を変える気持ちを強く表現した。
「故郷」の最後にも、希望についての記述にもある。魯迅は自分の甥と閏士の息子は二度と自分と閏士のような苦しい生活をさせたくないし、自分と閏士のような友情関係の崩壊を経験させたくない――人間と人間が分り合うことへの理想をもっていた。魯迅は希望が見えず、絶望の中をかき分けかき分け歩き、道を作る。その道を人が歩き、歩く人が多くなれば、その道こそが希望になるのではないかという名句を残した。人々が長い歴史を歩んできたからこそ、現在があり、また将来があるのである。

現在の時代、競争は非常に激しくなる、特に国と国の間で。日本でも、中国でも、いろんな問題が出てくる。たとえば、日本の拉致問題、いじめ問題、教育競争のような問題は解決しがたい。中国の農民工問題、社会の福祉問題、収入の格差問題のような問題はけっして容易に解決できないと思う。しかし、これらの問題があるからこそ、小林多喜二と魯迅の精神は今の時代にとって、非常に必要だと思う。小林多喜二の文学と魯迅の文学はもう時代に後れているという言い方は違うと思う。世間に不公平があればあるほど、小林多喜二と魯迅の精神が長く存在し続ける。世の中に貧困と飢餓があればこそ、小林多喜二と魯迅の文学の存在は価値があると私は強く信じている。

参考文献:
1.松沢信祐 『小林多喜二の文学』 光陽出版社 2003年12月20日
2.魯迅 『 魯迅小説集』  黒竜江人民出版社  2004年11月1日
3.小林多喜二  『小林多喜二全集』 新日本出版社  1982年9月25日

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[2007/3/9]

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時代を撃て・多喜二