第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

中日両国の二人の革命作家

河北大学院1年 杨青福(楊青福,やん せいふく,男性)

一、小林多喜二の死

小林多喜二は秋田県に生まれ、1907(明治40)年小樽に移住。伯父の家に住み込みパン工場の手伝いをしながら庁立小樽商業学校に通った。1921(大正10)年小樽高等商業学校に入学。同校校友会誌の編集委員となり詩や短編を発表する一方、中央雑誌にも投稿。小樽高商を卒業後、北海道拓殖銀行に就職。志賀直哉の影響を受けた人道主義的作品を書き、のちプロレタリア文化運動に入る。この頃、市内の有志とともに同人誌『クラルテ』を発行した。社会科学を学びはじめ、近代資本主義社会の諸問題に関心を抱き、港湾労働者の争議の支援等にかかわるようになった。
  1929(昭和4)年「蟹工船」「不在地主」を発表。同年拓銀から解職を受け、翌年春上京した。1931(昭和6)年当時非合法下にあった日本共産党に入党。職業作家、革命家であり、極めて困難な条件のなかで創作活動を続けていた。作家同盟の党組織工作に参加し、日本プロレタリアート作家同盟の中央委員兼書記長に就任して、左翼作家組織のリーダー的存在であった。小樽を舞台にした作品は「不在地主」のほか「一九二八年三月十五日」「転形期の人々」「地区の人々」など多数。
1933(昭和8)年2月20日昼ごろ、同志と秘密裡に連絡した時、スパイに裏切られて、築地署特高に逮捕された。午後7時45分、拷問を受け死亡した。「まっ蒼な唇、まっ蒼な頬、こめかみと顔面に突き破れられた傷が真っ黒い血のアナとなっていた。衣服は紙のように皺になり、ぼろぼろに引き崩れていた。衣服を更え、身体を拭き清めるために、破衣を脱がせようとして、私たちは思わず地獄の凄絶に戦慄を禁じ得なかった。これはどうだ!これが人間の皮膚であろうとは、錆び鉄のような隙間なく紫黒色の喉から胸が現れた。つづいて紫黒色の腹、股、膝、脚……見るも無惨な惨死体である。喉には深く肉に食い入った二条の縄の痕がある。手首にも、足首にも縄の痕。両手は捻じ曲げられたまま冷え固まって、もう真っ直ぐにもどすこともできないのである。」これは鹿地亘が書いた「死の日の記録」からの抜粋である。だが、1933年2月22日の夕刊の見出しは「小林多喜二氏急死す」であった。病死の口実はさぞ捏造するのに苦しんだことだろう。

二、小林多喜二の代表作「蟹工船」について

ある作家を理解するためには、其の作家の代表的な作品を読まなければいけない。
小林多喜二の代表的な作品は「蟹工船」である。「蟹工船」を書くために、1927年初めから、仕事の暇を利用して、実地調査をし、資料を収集していた。2年の詳しい調査を経て、1928年10月後半から書き始め、1929年3月に初稿を完成した。「蟹工船」はまだ日本が帝国だったころ、昭和初期の時代の話である。「蟹工船」では、日本人民に対する搾取の現実を、帝国主義的侵略と結びつけ、国民解放の戦いを新しい視野で描き出し、日本の文学の歴史に新しい時代を切り開いた。
実は、蟹工船は元来ソ連の領海侵犯の危険(ソヴィエト領内であるカムチャッカに侵入し蟹を取り、それを加工し缶詰にする)を犯す侵略的漁業であった。それ故、駆逐艦に護衛されなければならなかったのである。「蟹工船」は「会社」に仕立てられ、「国益」を大義名分に、ロシア海軍に対抗するための駆逐艦と共に出航する。
監督浅川は始めて姿を現した時から「一会社の儲け仕事と見るべきじゃなくて国際上の一大問題なのだ」と演説し、「日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだ」と強調する。

難破しかけた秩父丸のSOS信号を無視するなど、無法と暴虐の限りをつくして資本の利益を追求するが、それらはすべて「国際競争」とか「国家的使命」や「国家的利益」を強調することで合理化できるのだろうか?
「日本帝国のためどんなものでも立ち上がるべき秋」であり「人情味なんか柄でもなく持ち出して、国と国との大相撲が取れるか!」と言うのである。
多喜二はこの作品を蔵原惟人に送るに当たって、この作品は「蟹工船とはどんなものかということを一生ケン命にかいたものではない」と述べている。
  “二十年の間も繋ぎっ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。”――しかし「工船」といっても実際はこの程度の船である。
  そしてそれは、“労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。”ということでもあった。労働者といっても正式な「社員」などではなく、単純な季節雇いの肉体労働者である。彼らは「会社」にしてみれば使い捨ての可能な「もの」でしかない。会社から派遺されてきた監督の浅川は彼らを過酷に使い回す。かれらの「人権」は「会社」の関心の埒外であったから。「貴様等の一人、二人が何だ。川崎一ぱい取られて見ろ、たまったもんでないんだ」と言って、漁夫や雑夫の健康と生命を無視して「虐使」し、これに堪えぬものには残酷なヤキを入れて見せしめにした。一番働きの少いものに「焼き」を入れることを貼紙した。鉄棒を真赤に焼いて、身体にそのまま当てることだった。彼等は何処まで逃げても離れない、まるで自分自身の影のような「焼き」に始終追いかけられて、仕事をした。”
  やがて、浅川の苛烈な仕打ちで一人の労働者が死んでしまう。それをきっかけに「学生上り」や「吃りの漁夫」を芯として、自然に浅川らの代表する「資本主義」に対抗する組織が出来上がっていく。労働者の団結は船全体に広がり、ストライキヘと発展する。しかしストライキは同行していた軍艦の手によって鎮圧され、首謀者九人は捕らえられてしまう。
  だが労働者たちは「組織」の弱点を知った。“「――間違っていた。ああやって、九人なら九人という人間を、表に出すんでなかった。まるで、俺達の急所はここだ、と知らせてやっているようなものではないか。俺達全部は、全部が一緒になったという風にやらなければならなかったのだ。そしたら監督だって、駆逐艦に無電は打てなかったろう。まさか、俺達全部を引き渡してしまうなんて事、出来ないからな。”
  労働者たちは再び団結し、もう一度ストライキを敢行することになる。
この「労働形態」が「殖民地、未開地の典型的なもの」であり、「東京、大阪等の大工業地を除けば、日本の労働者の現状に、その類例が八〇パアセントにある」こと、「更に、色々な国際的関係、軍事関係、経済関係が透き通るような鮮明さで見得る便宜があった」ことが、多喜二がこの作品を書いた理由だった。
「資本主義は未開地、殖民地にどんな『無慈悲な』形態をとって侵入し、原始的な『搾取』を続け、官憲と軍隊を『門番』『見張番』『用心棒』にしながら、飽くことのない虐使をし、如何に、急激に資本主義的仕事をするか」を描き出そうとしたのだと多喜二は言う。
「プロレタリアは帝国主義的戦争に絶対反対しなければならない」と云うが、何故そうなのかが分かっている「労働者」は極めて少ない。

「然し、今これを知らなければならない。緊急なことだ(傍点原文)」と多喜二はこの手紙に書いている。「たゞ単に軍隊内の身分的な虐使を描いただけでは人道主義的な憤怒しか起すことが出来ない。その背後にあって、軍隊自身を動かす、帝国主義の機構、帝国主義戦争の根拠」を明らかにすることが必要だと多喜二は言い、「帝国軍隊 ― 財閥―国際関係―労働者」この四つを全体的に見るのに、蟹工船は「最もいい舞台」だったと述べている。
昭和と呼ばれる時代が始まった直後、1927年に金融恐慌が起こり、日本資本主義は重大な危機に陥る。
長く不況が続き、失業者が巷にあふれる。そして、軍部は危機の打開を帝国主義的侵略に求めて、第一次山東出兵(1927年)、張作霖爆殺事件(1928年)等を起こす。
それは同時に、帝国主義侵略戦争に反対し、労働運動、農民運動の先頭に立つ日本共産党に対する苛酷な弾圧の時代の始まりであった。1928年の三•一五、翌29年の四•一六と治安維持法による弾圧事件が相次いだ。
『蟹工船』において暴露された日本資本主義の帝国主義的侵略主義的な本質は、日中戦争が強行、拡大され、ついに無謀な世界戦争に突入し、破滅にいたる過程において、誰の目にも明らかになった。
それは天皇を絶対化して日本の「国家的使命」を強調し、「大東亜共栄圏」の美名のもとに侵略したアジアの諸国民ばかりでなく、日本国民にも苛酷な奴隷的労働と言語に絶する苦難を強いた。
このことは、敗戦によって万人の認めるところとなったが、これを昭和の初頭、いまだ戦争が本格化する以前において徹底的に見抜き、見事に作品化し、これとの戦いを強く訴えた意義は不滅である。
そればかりではない。この作品はこのような帝国主義的侵略主義的資本主義が強いる一切の人権を無視した「虐使」の現実こそが、最下層の何も知らない未組織の労働者や農民を目覚めさせ、組織と団結の意味を学ばせることを描いている。
自分たちを守ってくれるものだとばかり思っていた帝国海軍の水兵たちに銃剣を突き付けられて、国家に対する幻想は完全に打ち破られる。
天皇と国家への幻想は明治以来の日本人の魂をがんじがらめに縛りつけ、日本の侵略主義的資本主義の基盤となった。しかし、その現実が国民の幻想を打ち破る。
理屈や言葉ではなくて事実が人間を変える。国家を強調し、侵略を美化して、国民を苛酷な奴隷的労働に駆り立てる国家主義的美辞麗句が氾濫し始めた時代にあって、多喜二は徹底して事実を追求し、事実によってその虚偽性と欺瞞性を暴き出し、現実そのものに人間の変革と解放の可能性を探り求めたのだ。

三、魯迅と其作品

魯迅(1881-1936)、本名は周樹人、字(あざな)は予才。中国の文学者、思想家及び革命家である。浙江省紹興の出身で、没落封建家庭に生まれた。青年時代には、進化論、ニーチェの超人哲学、トルストイの博愛思想の影響を受けた。1902年、初め日本の仙台に留学して医学を志したが、のち文学に転じた。文学により民族性を改造したかったのである。1905-1907年、革命党人の活動に参加した。「摩羅詩力説」、「文化偏至論」等の論文を書いた。1911年の辛亥革命後、南京臨時政府と北京政府の教育部部員に就任した。1918年5月、初めて「魯迅」の筆名で「狂人日記」という中国現代文学初の口語作品を書いた。被害妄想患者の日記の形を借りて、仏教的道徳規範の実体を暴き、精神革命の必要を訴えた。これは新文学の基礎を定めた。この以降、創作·社会批評·海外文学紹介などに努めた。「阿Q正伝」などで中国の国民性を批判した。数々の小説・詩・散文を発表して社会悪の根源をえぐりだした。中国左翼作家連盟の中心として各派と激しく論争を展開。著作には「吶喊(とつかん)」「彷徨」「野草」など。1936年、上海で亡くなった。

四、「阿Q正伝」

「吶喊」に収録した「阿Q正伝」は魯迅先生の代表作である。この中篇小説は辛亥革命前後の社会現実を背景にして、雇農阿Qの抑圧された、反抗したい、最後に反動勢力によって殺害された悲惨人生を描くことを通して、深刻に当時の農村の階級矛盾を暴き、資本家階級が指導した辛亥革命の不徹底性と離脱群衆を批判した。
阿Qは一人の愚かで情けない民衆の象徴だった。魯迅は阿Qの不幸に深く同情を示したが、「其不幸に悲しむ、其不争に怒る」という精神を表現した。阿Qはいかに虐げられても、常に勝利者と考えて自己満足し、ついにこのため死刑に処せられた。趙太爺(だんな)等反動勢力に対して激しく批判した魯迅は、阿Qの精神(精神勝利法)を当時の中国人の奴隷根性の典型として描いた。「精神勝利法」への批判を通じて、農民を目覚めさせようとした。農民たちを革命に参加するように促していた。「阿Q正伝」は中国現代文学の最優秀の作品の一つであり、世界中の公認の傑作である。

五、魯迅と小林多喜二との関係

小林多喜二は前世紀30年代前後から今に至るまで、中国人が日本文学を理解するために、数多く紹介された作家である。当時、中国の進歩刊行物(秘密に発行した革命刊行物を含め)にはよく彼の名が現れていた。魯迅は多くの日本の作家の作品を翻訳した。小林多喜二の作品は、直接翻訳したことがないが、非常に関心を持っていて、かつて、日記に詳しく小林多喜二の遺著の購入期日と冊数を書いていた。魯迅が購入·収蔵した小林の遺著には、『日和見主義に対する闘争』日本語版(昭和8(1933)年出版)、『小林多喜二書簡集』昭和10(1935)年出版、『小林多喜二全集』昭和10(1935)年出版、『小林多喜二日記』昭和11(1936)年出版、『1928年3月15日』ドイツ語訳文版昭和6(1931)年出版がある。
魯迅は自分で小林多喜二の作品を購入·収蔵したほかに、熱心に友人を助けて、小林の作品を購入していた。例えば、胡風が小林多喜二の『書簡集』を買いたくなって魯迅に頼んだ。魯迅は1935年8月24日に、胡風に手紙を送った。その文中に「『書簡集』は売切れてしまいましたが、又仕入れます。其のとき、彼に一冊残してくださいと頼みます。」と書いていた。この書簡集は『小林多喜二書簡集』に当たる。其の「彼」とは内山書店の主人の内山完造のことである。小林多喜二が被害後、魯迅はすぐに左翼の同志と一緒に「小林同志事件抗議書」を発表した。日本反動当局のファシズム的な暴行を激しく暴き、論難した。そして日本語で弔文を送って、深甚なる哀悼を表した。

「日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆を騙して、其の血で界をえがいた、又えがきつつある。併し無産階級と其の先駆たちは血でそれを洗っている。同志小林の死は其の実証一だ。我々は知っている。我々は忘れない。我々は堅く同志小林の血路に沿って、前進し握手するのだ。」

この弔文は昭和8年2月20日午後(1933年7月7日、全面的な中日戦争が始まり)、築地警察署で、特高警察の手で逮捕、拷問、虐殺された小林多喜二の死を悼み、中国の文壇の代表人物、魯迅が送った電文である。この弔文の訳文は『魯迅全集』にある。
魯迅は本当の革命者を尊敬する。彼の一生では何人かの革命者に接触したことがある。ここでは、日本の左翼の革命者である小林多喜二との関係をちょっと紹介しただけだ。

六、小林多喜二と魯迅のちがい

小林多喜二であろうと、魯迅であろうと、両方とも作家として世界中に認められている。革命への熱情も同じだといえよう。
しかし、二人の主な創作目的は違うと思う。「蟹工船」では、当時日本資本主義は厳重な危機が発生して、企業倒産、農民破産、大勢の失業労働者が路頭に迷っていた。彼らは生きるため、蟹工船に働きに来た。だが、過重な搾取に我慢することができなくなって、そして、国内外の革命情勢に激励され、ついに、組織的なストライキを行った。日本帝国主義の対内搾取の残酷性と国民の精神的目覚めを描いたのである。「不在地主」では、地主兼資本家(不在地主)が政府、軍隊、銀行と結託して貧乏な農民を搾取していることを暴き、同時に農民の組織的な抵抗を評価した。闘争勝利のカギは団結だという視点を表現した。「党生活者」を通して、日本帝国主義の本質(侵略、弾圧)と党生活者の艱苦を描いた。当時、すでに日本共産党に入党していた作者は、党員としての決意を、この作品の中で示した。
  圧迫者や狂暴者に対して、魯迅は勇敢に立ち向かって、闘争していた。三·一八虐殺事件後、魯迅は「たらたら流れる血に思い切って正視して、暗い人生に直面した。」。「インクで書いた嘘は、絶対に血で書いた事実を隠すことができない。」と指摘した。(「記念劉和珍君」)
だが、自国民の目覚めを呼びかけることは魯迅の主な創作目的だったと思う。「侵略者が中国の革命者を射殺した時、やじ馬見物をした人は中国人で、無感覚·無関心な顔をしていた。」阿Qの意気地が無い精神性格はその当時の中国人の一部の代表であった。自分の国家を救うことは自国民しかできないので、目覚めさせて、団結させて、一緒に戦って国難に立ち向かう。これは魯迅の視点である。
創作目的は違っても、革命家の二人は自分の国にも、世界にも貢献したのである。今、私たちは彼らの作品を読んで、その時代の残酷な社会状況を理解できて、彼らの戦闘精神に感心している。

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[2007/3/9]

白樺文学館 - 小林多喜二の書簡 常時展示中

時代を撃て・多喜二