第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

小林多喜二の死から、日本共産党の受けた迫害を見る
:The Persecution of Communist Party of Japan According to the Death of Kobayashi Takiji
:从小林多喜二的死来看日本共产党所受的迫害

大学院1年 李 琨 (り こん,李 琨,Li kun,男性)

日本のプロレタリア文化・文学運動の卓抜なる指導者、組織者、国際的規模におけるボルシェヴィク作家、小林多喜二は1933年2月20日に、暴虐なる天皇制テロルによって虐殺された。小林多喜二は日露戦争開戦の前年の1903年に生まれ、15年戦争の起点となる「満州事変」惹起の2年の後に虐殺された。多喜二の短い生涯は、いわゆる「大正デモクラシー」期にほぼ重なり、その思想と文学にはこの時代状況がしっかりと刻印されている。1928年から1933年までの間、多喜二がプロレタリア文学の道を踏んで、「一九二八年三月十五日」、「蟹工船」、「不在地主」などの意欲的な作品を発表した。こういう時期も日本が戦争とファシズムへ急速に傾斜していく時期であった。当時政府の命令によって、国家機関、特に特別高等警察は社会主義と共産主義など反体制思想の活動を弾圧して、プロレタリアと自由主義への迫害も深刻になっていった。政府の迫害を受けて虐殺された多喜二は共産党員と自分の境遇を作品の一部として発表して、労働者と農民たちを覚悟させるように頑張った。もちろん、その時期、迫害を受けた人は多喜二一人だけではなく、全部の党員も検挙、拷問される可能性があった。白色テロと言えるだろうと思う。本文は、小林多喜二の境遇、作品と残った資料から、当時日本共産党の受けた迫害を見てみたい。

一、小林多喜二の死に関する特高が共産党への迫害

特別高等警察は、大日本帝国憲法下の日本で、治安維持の名の下に社会主義・共産主義など反体制思想の活動を弾圧した秘密警察。俗に「特高警察」や「特高」と略される。特別高等警察という名称については、天皇制維持(国体護持)が他の活動より特別に高等、重要であるとする思想から命名された。
特別高等警察が最初に設置されたのは、アナーキストの天皇暗殺計画であるとされた幸徳秋水事件(大逆事件)を受け、1911年、警視庁に政治運動対象の高等警察から独立して、社会運動対象の特別高等警察課が設置された時である。この時、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局警備保安課の直接指揮下に置かれた。その後、警視庁の特別高等課は東京府特別高等警察部として独立する。
1924年には、大阪府や京都府といった主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、治安維持法が制定された。1925年には取り締まりの法的根拠の整備が終わり、1928年に三・一五事件を受けて、赤化への恐怖を理由に全国配置が完了した。
内務省警保局保安課の統括下におかれ、とくに民主主義の実現と侵略戦争反対をかかげる日本共産党の創立以後は日本共産党を主な標的にしつつ、いっさいの民主的な思想や運動の破壊に狂奔した。そのやり方は、拷問やスパイによる弾圧などまったく野蛮なものだった。
  たとえば日本共産党員やその支持者を逮捕すると残虐な拷問をおこない、党を裏切ってスパイになることを強要。屈しない者は、拷問で殺してしまうことがしばしばだった。また、日本共産党にスパイをもぐり込ませ、そのスパイに銀行強盗をやらせて日本共産党のしわざと大宣伝するなど、卑劣な謀略も常とう手段とした。
転向した元共産党員田中清玄などの証言からも、特高のテロ活動をしていたのは確かだった。 
「彼ら(特別高等警察)がこうした出版界に干渉することになったのは、内務官吏が飲む機会をつくる目的にあるらしい。大蔵省、農務省などはそうした外郭団体を沢山もっている。が、内務省にはそれがない。そこで出版界に目をつけたのだ。彼らは直接に干渉し得るところに、利権をもって割り込むのである。通信院が放送局や電気事業界に、外務省がニッポン・タイムスや外政協会というようにである。彼らはこの目的のために問題を起こしておいては人を変え、自分の都合のよいような人物をあげて飲む機会を作ったり、友人に恩を売ったりするのだ。かくしてその外郭団体はますます拡張される。目的がこれだから、彼らは統制の必要のないところでも、無理に統制をやる。」(清沢洌『暗黒日記』、昭和19年7月3日)
  そのほか、特高についての資料がいろいろと残された。特高資料を全面的に信頼するわけにはいかないが、『昭和特高弾圧史1』を見ると、1930年5月20日に、特高が一斉検挙して、全国の781名の「日本共産党・党員及直接関係者を検挙」した。3分の1以上の293名が大阪府だった。この数の中に小林多喜二は含まれているかもしれない。 

二、迫害をうけて、共産党の衰え

共産党は何回も大打撃を受けながらも、革命的経験をたくわえ、あやまりを自己批判し、正確なテーゼを持って、さらに発展しようとした。そのとたんに、32年10月、またも党中央をはじめ全国にわたり、1500余名の共産党、共青、全協員のいっせい検挙があり、翌33年2月には、大阪地方を中心として、同じく、1500余名の逮捕が行われた。とらえられたものに対する拷問は、もとから暴虐かぎりないものであったが、それはいよいよひどくなった。天皇の名によって行われた拷問は、中世期ヨーロッパの宗教裁判や江戸時代の奉行所で行われたそれにも勝る残酷無比のものであった。これによって、共産党の指導者岩田義道をはじめ、多くの人々が殺された。また、10月の検挙で共産党幹部上田茂樹らは、警察に捕らえられたまま、永久に消息を絶えた。
政府や警察や裁判所は、絶えず拷問の事実を否定している。しかし、特高警察の組織者、指導者であった安倍源基の推薦する小林五郎著『特高秘録』でさえ、「警察の道場で、女をはだかにして、けがす。殴った後を残すことはさけねばならないから、水道のゴム管の内へ針金を入れたもので殴る。眠らせないように、絶えず、鼻の先へちょろちょろと水をかける。等々の」拷問を行ったことを認めている。事実は、もちろんこれどころではなく、もっと凶悪なことが行われた。
警察のスパイや挑発者がたくみに党内に送り込まれ、党内部からの破壊にもつとめた。スパイ党員が幹部になり、銀行ギャングを組織し、国民に共産党にたいする恐怖心を植えつけたこともある。また買収と拷問をたくみに使いわけて、「転向」という裏切りをやらせた。32年6月、獄中にあった三・一五以前の共産党の最高幹部佐野学と鍋山貞親が、「転向」を声明したことは、多くの転向者を生み出すきっかけとなった。
共産党とその指導下の諸組織は、息もつかせぬ迫害をうけて、33年春ごろから、しだいに衰えた。同年5月には党中央委員野呂栄太郎らによって再建されたが、11月には野呂も逮捕され、34年2月、拷問と長期拘置が原因で殺された。このころまでに、全協と全農全国会議が完全につぶされた。共産党の再建は、なおもねばり強く戦われたが、片っ端から弾圧され、内部にも動揺が生じ、裏切り的な分派が作られたり、スパイにかき乱されたり、党員相互の信頼も薄れ、35年2月『赤旗』の発行もついにできなくなった。共産党はもはや全国的組織として活動できなくなった。

三、「一九二八年三月十五日」から、共産党の迫害を見る。

特高警察の指揮のもと、手段を選ばない拷問が警察の留置所からまず始まった。その情況は、北海道の小樽で様子を見聞きした小林多喜二が、小説「一九二八年三月十五日」のなかで実にリアルに描きだしている。「一九二八年三月十五日」が執筆されたのは1928年5月26日からで、三・一五事件の2ヶ月後だった。事件後1ヶ月近く当時の言論は、政府の禁止によって、事件自体とその真相を一切報道しなかったのだ。ただ「某重大事件」位の簡単な報道のみで、ほとんどの国民はその事件があったことすら知らない。事件1ヶ月後、やっと政府は「世界革命の一部としての動乱の陰謀」といって、3月15日の大量検挙の事実を発表した。日本共産党は日本の国体を変革し労働者・農民の独裁政権の樹立による共産主義社会建設を目的としていたが、1928年1月から、急な党勢の増大に至った。政府は、それを治安維持法違反と見なし、3月15日、全国的な一斉検挙に取り締りをしたと説明した。
こういう点から、政府はその時期、自分の統治に不利な言論を禁止しながら、反対者、特に日本共産党を迫害した。当時の日本の国家体制を変革し私有財産制度を撤廃することこそ、労働国民の利益と幸福につながると固く信じている共産党側の人間として、小林多喜二はより具体的で客観的な真相解明を読者に知らせるために「一九二八年三月十五日」を発表した。
「一九二八年三月十五日」は、語り手によって「龍吉」と呼ばれる小川龍吉の連行直後、衝撃をうけて呆然としているお恵の内面描写から始まる。
この文章で共産党員の受けた迫害を描写した。時間順に羅列するとだいたい次のようになる。
①3月15日午前3時 合同組合の事務室と各組合員の家を対象として検束が始まる。その中で、「龍吉が家から連行される、合同組合の事務室が奇襲され、組合員たちが連行される、工藤が家から連行される。」。
②独房に収監された渡が思い出した数回にわたった拷問。
③渡は三時間も取り調べられながら拷問される。
④工藤が拷問される。
⑤鈴木が拷問される。
⑥龍吉が拷問される。
⑦斉藤は拷問の恐怖のために発狂する。
⑧17日の夜、佐多が自分の家から連行される。
⑨4月20日まで小樽警察署内の収監者全員が札幌に護送され、留置場の板壁には革命を呼びかける文句のみが残る。
「一九二八年三月十五日」の内容を総じて言えば、主人公龍吉を含めて弾圧と拷問を受けることによって、階級的自覚と革命意識に目覚めていくことがわかる。そのほかに、多喜二は当時の政府が共産党員を迫害する事実を全面的に描写して、より客観的に国民全体に政府の暴行を披露した。こういう文章から、日本共産党員の受けた迫害がはっきり読者の前に現れる。

四、小林多喜二の死から、共産党が受けた残酷な迫害を見る。

小林多喜二の死は、当時の日本共産党が受けた最大の迫害だと言える。彼の死から当時政府の共産党に加えた残酷至極な弾圧や拷問手段が見える。本論の最後に、岩郷義雄(彼はスパイ三船の手引きで同じときに逮捕され、築地署にいた)の多喜二の死についての回想で、その時の残酷な迫害を見せて、拙文を終わりたい。

 真冬の冷たい檻房に暮色がようやく迫ろうとし、五つの房にすしづめとなった留置人たちは、空腹と無聊と憂鬱とでひっそり静まり、ただ夕食の時刻が来るのを心待ちにしていた。
  突然、私の坐っている檻房の真正面にあたる留置場の出入口が異様なものものしさでひらかれた。そして特高――紳士気取りの主任の水谷、ゴリラのような芦田、それに小沢やその他――が二人の同志を運びこんできた。
  真先に背広服の同志がうめきながら一人の特高に背負われて、一番奥の第一房に運ばれた。つぎの同志は、二三人の特高に手どり足どり担がれて、私のいる第三房へまるでたたきつけるようにして投げこまれた。一坪半ばかりの檻房は一二、三の同房者で満員だった。その真中にたたきこまれて倒れたまま、はげしい息づかいと呻きで身もだえするこの同志は、もはや起きあがることすらできなかった。
「ひどいヤキだ……」同房人たちは驚いた。
  私は彼の頭を膝に乗せた。青白いやせた顔、その顔は苦痛にゆがみ、髪のやわらかい頭はしばしば私の膝からすべり落ちた。「苦しい、ああ苦しい……息ができない……」彼は呻きながら、身もだえするのであった。「しっかりせい、がんばれ」と、はげますと、「うん……うん……」とうなずく。その同志は紺がすりの着物に羽織という服装であった。顔や手の白さが対照的にとくに印象ふかい。整った容貌は高い知性をあらわし、秀でた鼻の穴に真紅な血が固っていた。手指は細くしなやかで、指のペンダコは文章の人であることを物語った。同房人たちも胸をひろげてやったり、手を握ったり、どうにかしてこの苦痛を和らげねばならないと骨折った。
  一体、この同志は何の組織に属する何という人だろう、私は知りたく思った。「あなたの名前は?」と、私は尋ねたが、それには答えず、間欠的に襲いかかってくる身体の底からの苦痛にたえかねて、「ああ、苦しい」と、もだえるのであった。
  たった今まで、この署の二階の特高室の隣りの拷問部屋で、どんなに残虐な暴行が行われたか、そして、二人の同志がいかに立派にたえてきたかを、この同志の苦しみが証明した。
  やがて、「便所に行きたい」というので、同房人が二人がかりでそっと背負って行った。便所へついたと思う間もなく、腹からしぼり出すような叫び声が起こった。やがて連れ戻ってくると、「とても、しゃがまれません。駄目です」と、同房人が言った。
  私は先ほどから、そわそわして様子を見ている看守に言った。「駄目だ、こんな所では、保護室へ移さなければ」私たちの房の反対側に保護室があった。そこは広く、畳が強いてあり、普通、女だけを入れたが、大ていあいていた。看守はうなずいて、私たちは同志を移転させ、毛布を敷き、枕をあてがった。そして、彼の着物をまくって見た。「あっ」と私は叫んだ。のぞきこんだ看守も「おう……」と、呻いた。
  私たちが見たものは「人の身体」ではなかった。膝頭から上は、内股といわず太腿と言わず、一分のすき間もなく一面に青黒く塗りつぶしたように変色しているではないか。どういうわけか、寒い時であるのに股引も猿又もはいていない。さらに調べると、尻から下腹にかけてこの陰惨な青黒色におおわれているではないか。
  「冷やしたらよいかもしれぬ」と、私は看守に言った。雑役がバケツとタオルを運んだ。私たちはぬれたタオルでこの「青黒い場所」を冷やしはじめた。やがて、疲れはてたのか、少しは楽になったのか、呻きも苦痛の訴えもなくなった。同志は眼を閉じて眠る様子であった。留置場に燈がついて、夕食が運ばれた。私はひとりで彼の枕辺に坐って弁当を食い終った。そして、ふたたび彼の顔をのぞいたとき、容態は急変していた。半眼をひらいた眼はうわずって、そして、シャックリが……。私は大声でどなった。看守はあわてて飛び出して行った。
  やがて、特高の連中がどやどやとやってきた。私は元の房へつれもどされた。保護室の前へ衝立が立てられた。まもなく医者と看護婦がきた。注射をしたらしかった。まもなく、担架が運びこまれた。
  同志をのせた担架がまさに留置場を出ようとするときであった。奥の第一房から悲痛な、引きさくような涙まじりの声が叫んだ。
  「コーバーヤーシー……」
  そして、はげしいすすり泣きがおこった。
  午後七時頃であった。

参考文献:
1島村輝 「満州事変」後の世相と多喜二晩年の仕事 (『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)
②朴真秀 小林多喜二「一九二八年三月十五日」の作中世界と視点  (『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)
③手塚英孝『小林多喜二』(新日本出版社)
④井上 清『日本近代史』(合同出版社) 
⑤インタネットより

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[2007/3/9]

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時代を撃て・多喜二