第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

理想と反抗に燃えて 「小林多喜二」
――「党生活者」を中心に

院生2年  董佳佳(董佳佳,とうかか,Dong JiaJia,女性)

小林多喜二といえばプロレタリア作家の代表として有名である。彼には優れた様々な作品があり、これらは今日でも価値の高いものとして残されている。「党生活者」は、日本軍国主義が世界に覇権を広げようとした時代の目撃者であり、またその時代の命がけの抵抗者であるからこそ、私たちの胸を強く撃ち、時代を撃った。日本国内だけでなく海外でも広く読まれ、注目されているのである。

一、「党生活者」が書き上げられた背景

「党生活者」が書き上げられたのは1932年8月であるが、1933年4、5月に「転換時代」の仮題で月刊雑誌『中央公論』に発表された。31年の9月に「満州事変」が始まっている。32年3月には文化団体に対する大弾圧が始まり、多喜二は地下に潜って活動しなければならなくなっている。毒ガス戦のためにガスマスク生産を急ぐ会社は、大量の臨時工を雇い入れ、長時間の苛酷な労働を強いた。労働者の不満と反抗を抑えるために、会社は青年団や在郷軍人会を動員して「非常時」を強調し、お国のために我慢せよと宣伝し、愛国心を高揚するために「慰問金」の募集を始めた。多喜二は毒ガスマスクとパラシュートの軍需工場――藤倉工業の労働者との交流を通じて取材したのである。

二、「蟹工船」や「一九二八年三月十五日」と比べて小林多喜二の思想変化

多喜二は日本人民の悲惨な現実をまざまざと描き出しただけでなく、その解放の戦いを、 自己の文学の主題として一貫して追求した。『一九二八年三月十五日』で、国民の目から隠された天皇制国家権力の苛酷な弾圧の現実を徹底してあばきだし、日本人民の不屈の戦いを描き出したことは、その生涯の方向をはっきりと指し示すものであった。
『蟹工船』では日本人民に対する搾取の現実を、帝国主義的侵略と結びつけ、国民解放の戦いを新しい視野で描き出し、日本文学の歴史に新しい時代を切り開いた。特に1931年の「満洲事変」以後、多喜二は侵略戦争反対と天皇制打倒の戦いを、自己の文学的課題として全力を挙げて追求した。
「満洲事変」を契機に、「非常時」「挙国一致」「忠君愛国」「満蒙は日本の生命線」というような言葉が氾濫させられ、社会民主主義諸政党も、戦争協力に転じたり、平和の戦いから後退したりして、国をあげての軍国主義化が急速に進行した。この時、天皇は国民の生活要求を抑圧し、戦争に動員するための最大のイデオロギー的武器であった。
この困難な時代に、多喜二は日本共産党に入党し、侵略戦争反対、天皇制打倒のために戦う党の一員として、みずからこの戦いの先頭に立った。そして、極めて困難な条件の中で、全力を挙げてこの戦いを描き出した。

三、「党生活者」の主な内容

「党生活者」は「満洲事変」が始められた直後、軍事生産に転換した工場内部で展開された、首きり反対と侵略戦争反対を結びつけた闘争を描いている。同志が次々に検挙され、「私」も地下に潜って戦わなくてはならない。たえず警察につけ狙われ、日々の生活そのものが戦いであった。多喜二は、極めて困難な状況における「非合法活動」の諸問題を、その困難な戦いを戦う人間の内面の問題にまで立ち入って、真正面から追求している。
「非常時」を口実に低賃金を押しつけ、臨時工を大量に雇い入れて、いつでも自由に首を切るなど、戦争とともに労働者の労働条件は悪化した。社会大衆党系の「僚友会」は戦争協力に転じ、満蒙を手に入れれば労働者の生活がよくなると宣伝し、在郷軍人会と結んで、慰問金を募集したりする。これには、戦争に反対する共産主義者をあぶり出し、警察権力の手に売り渡そうとする悪だくみさえ隠されていたのである。
「党生活者」は、「私」を主人公に、「私」の語りによって物語が展開される。そこで、「私」を初めとする日本共産党員たちが、特高に狙われるなか、「倉田工業」と言う毒ガスマスクやパラシュートを製造する軍需品会社にもぐり、地下活動をしながら労働者運動のリーダーシップとして、軍国主義勢力の代表と戦い、戦争景気などの甘い口実で組織的かつ計画的、煽動的に職工たちを組織している「僚友会」の右翼勢力との間で、巧みに活動し闘って、「私」たち共産党員の指導の下で、会社側の「大量カク首」の企てにストライキで反対するようビラ撒きで呼びかけ、各職場の代表を一つにして会社側に抗議するまで運動を高まらせたものの、狡猾な会社側の企てにあって、ついにこの闘いは鎮圧されてしまうのである。

四、「党生活者」が引き起こした反響

多喜二の「党生活者」は、実は前篇だけの未完の作品である。多喜二が生きていれば当然、中篇と後篇が書かれたことと思う。しかし、天皇の政府はそれをテロで無惨に阻止した。さらに、多喜二の残した文学を「国禁の書」として、多喜二の名を語ることさえ禁止した。つまり、多喜二の生命を奪っただけでは足らず、多喜二の文学精神そのものを抹殺しようとしたのである。
しかし、「党生活者」はその弾圧の中でも大きな反響を引き起こした。「党生活者」は、不屈に戦う共産党員の戦いを描いただけではなく、戦争に国民を動員する戦争勢力の卑劣な戦術を暴露し、侵略戦争開始直後の工場内の労働者の動きを伝えて、どうして国民が戦争に巻き込まれていたかを、改めて深く考えさせる。当時においても、共産党の存在は国民から隠されていた。この困難な情勢にも拘らず、共産党が組織を守り、あくまでも侵略戦争反対、天皇制打倒の旗を掲げて戦い続けている事実を描き出すことは、戦争に反対する人々にとって限りない励ましであった。そして、何度となく「共産党は壊滅した」と宣伝している戦争勢力にとっては大きな打撃であった。小林多喜二もこの作品を通じて、はっきりと反戦思想を宣揚し、独自の旗印を掲げて中国を侵略する帝国主義戦争に激しく反対して、国際主義精神を表したのである。

五、「党生活者」のプロレタリア文学での地位

「党生活者」は日本プロレタリア文学の傑作であり、日本現代文学史上でも重要な位置を占める。その当時、この作品は広大な大衆の間に広く語り伝えられていた。日本プロレタリア文学の中にまれに見ることのできる芸術的傑作と言われる。まず、この作品は時代の特徴を捉まえて、その時代をより深く、広く描き出した。そして、日本軍国主義の罪を力強く指摘し、共産党員の献身する精神とその気高いプロレタリア国際主義の精神を熱情的に謳歌した。「党生活者」は、プロレタリアの戦いの結晶であり、戦争に反対し、人間的生存の権利のために戦う日本国民の戦いの歴史に燦然と輝く記念碑的作品となった。日本のプロレタリア文学を代表する作品と言えるであろう。

六、政治と文学、小林多喜二の生涯と文学の関係を見直す

「一九二八年三月十五日」も「蟹工船」も「党生活者」も、多喜二の文学はいつでも、国民の目から隠された事実を暴き出し、読者の現実に対する認識を深め、発展させ、変革して、新しい戦いの道を指し示した。そこに、文学を政治に従属させた多喜二の文学の、文学としての高い達成があった。
政治と文学の問題は、当時において、また戦後の一時期において、深刻に論じられた問題であるが、多喜二にとって、政治と文学は別々に切り離されたものではなかった。戦争反対と天皇制打倒の戦いは、多喜二の内面に深く根差した全人間的課題であり、文学をこの課題から切り離すことは出来なかった。
多喜二は、歴史の尖端に立つ自分自身の戦いを通して、これまでの日本の文学にはなかった新しい文学的世界を創造した。多喜二は戦いを通して、現実に対する認識を発展させ、自己の弱点を克服して新しい世界を切り開いて行った。多喜二の文学が、一作ごとに新しい発展を示したのはこのためである。
現代の一般的な傾向として、政治に対する無関心が拡大している。特に文学においてその傾向が顕著である。このため、現代の文学は国民生活の現実から遊離し、閉鎖的になる傾向を強めている。政治に対する無関心は、現代社会の巨大なメカニズムにのみこまれ、現実に対する批評性、積極的主体的な能動性を失っていることの現れである。それは現実に対する屈服であり、文学の衰弱と退廃を招かずにはいられない。
文学の歴史は、文学が現実との戦いを通して、人間の可能性を追求し、現実に対する認識を発展させ、新しい文学世界を創造して来たことを示している。現代文学の一般的衰弱と退廃を打ち破り、文学が現実との生き生きした関係を回復して、国民生活に必要なものとなるために、今、政治と文学の関係が改めて真剣に問い直されなければならない。この意味で、小林多喜二の生涯と文学も、改めて新しい光で照らし出される必要があると思う。
多喜二の30年足らずの短い生涯はプロレタリア文学のみならず、昭和文学の一つの頂点を示す。「防雪林」「蟹工船」「党生活者」、そこには昭和初頭、真摯なれば真摯なほど、変革者たらざるを得なかった知的青年のひたむきな文学的人生がある。
昭和8年2月20日、小林多喜二の逮捕と虐殺は、昭和という時代の明暗の分水嶺を象徴する。この真摯な変革者の死の衝撃は、長く昭和史を語るものとして忘れられてはならない。
小林多喜二は明治36年に秋田県の農家に生まれ、一家が小樽に移り、そこで働きながら小樽高商を卒業して北海道拓殖銀行小樽支店に勤めた。鋭敏な知的青年として文学を好み、志賀直哉のリアリズムに傾倒したが、その頃から社会科学を学んで志賀の自己中心的なリアリズムを社会的追求の中に生かそうとした。その当時書いた小説「防雪林」は未発表のまま過ぎたが、彼の初期の代表作となった。まもなく昭和3年の、小樽三・一五事件にかかわりをもち、その強烈な印象によって「一九二八年三月十五日」を書いて成功し、プロレタリア文学運動の中に有力な新人として登場した。特高警察のすさまじい拷問その他の弾圧と、これに屈せぬ労働者の激しい抵抗を、リアルな筆致によって描き、プロレタリア・レアリズムを生かした作品として強烈に印象された。しかし、これによって彼は後々までも特高から注目の中に置かれたと伝えられている。その後もなお小樽にいて、ひそかに共産主義運動に協力し、彼の代表作「蟹工船」を発表した。これは広く文壇的にも評価されて、現代にもプロレタリア文学が生んだ代表作とされているばかりか、ドイツ、ロシアその他外国でも翻訳された。プロレタリア文学は小林多喜二の出現によって新しい段階に入った、といわれているほどであった。「蟹工船」は、帝国海軍に保護されてオホーツク海まで行き、暴利をむさぼった蟹工船の中で、労働条件の苛酷に苦しむ労働者が自覚し、団結して闘争に立ち上がったことを、行きとどいた調査と見事な表現力によって描き、プロレタリア文学を重からしめた記念碑的作品のひとつであった。なお「蟹工船」は不敬罪にあたる記述があるとして、一時小林は投獄されたりした。
昭和4年に日本プロレタリア作家同盟ができたときは、その中央委員に選ばれ、また小説「不在地主」の発表を原因として、その年11月に北海道拓殖銀行を解雇された。昭和6年10月には作家同盟の書記長に選出され、その頃共産党に加わって、党の方針によるプロレタリア文化運動を全面的に党の合法的な面の宣伝・煽動の機関たらしめるための組織活動に献身することとなり、いわゆる地下にもぐって活動しながら、小説「転形期の人々」「党生活者」などを発表し、さらに党の文化運動の政治主義を非難するものたちを、変名ではあったが痛烈に論難した。
昭和8年2月20日、スパイによって捕らえられ、東京築地署で特高の手で拷問虐殺された。彼は真理と理想のために、そして日本帝国主義の中国に対しての侵略を断固として反対するために犠牲になった。しかし、小林多喜二の文学精神やプロレタリア国際主義精神は世界人民の心の中に末長く生き続き、永遠に輝いている。

参考文献
1. 徐永祥「日本プロレタリア文学作家 小林多喜二」(『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)  
2. 田鳴「白色テロの下で活躍した「党生活者」たち――作中人物像を中心に」(『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)  
3. 張朝柯「中国人の国際友人としての小林多喜二」(『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)        
4. 佐藤 三郎「文学が戦争を描く意味――「党生活者」と旧日本軍の毒ガス.細菌戦前夜の多喜二」(『いま中国によみがえる小林多喜二の文学』東銀座出版社 2006年)
5. 朱震「論小林多喜二的《党生活者》」
6.www.yahoo.co.jp 日本雅虎

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[2007/3/9]

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時代を撃て・多喜二