第1回 河北大学・小林多喜二研究奨励論文募集応募論文

近代文学においての小林多喜二文学 ―小林多喜二と彼の時代
论文题目:近代文学中的小林多喜二文学
The title: the literature of kobayashi takiji in modern literature history

日本語科院生1年  倪立萍 (げい りっぺい,倪立萍,Ni liping,女性)

日本は明治維新を通じて、近代社会に入った。政治、経済など各方面に改革を行っただけではなく、文化面に根底から改めなければならないことが明らかであった。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといヘり」という福沢諭吉の「学問のすすめ」の冒頭にあるこの言葉は、日本が近代文学時代に入ることを告げている。封建制への激しい批判と平等の精神、文明社会への深い共感とが人々の意識に未曾有の影響を与えた。社会進歩や近代文明の発展に深く寄与した。だから、近代文学史をよく理解するためには、文学の知識を暗記するだけではなく、社会状況や文芸思想を把握すべきだと思う。それは小林多喜二の思想と文学には、彼の時代状況がしっかりと刻印されているからだ。
小林多喜二は小樽高商に入学してから、文学の勉強を始めた。そのころ、志賀直哉に傾倒した。
「図書館で私はまた、ほとんど常に、広い閲覧室のどこかに、あの青白い、自信ありげな顔をした小林がいるのを発見した。また来ているとその度に私は彼の存在を意識し、うるさいように感じた。」
「この図書館には文学書が多いと言われた。新本の陳列棚には、大正十五年前後の有力な新しい小説家たちの作品集が一面に並んでいた。それは谷崎潤一郎、室生犀星、里見弴、芥川龍之介、豊島与志雄、志賀直哉、広津和郎、菊池寛、宇野浩二、佐藤春夫、武者小路実篤というような人たちであった。また、その同じ顔ぶれが毎月のように書いている雑誌『中央公論』『改造』『新潮』などが雑誌の棚に並び、外に評論雑誌『我等』があった」
伊藤整の「若い詩人の肖像」には、そう書かれている。
小林多喜二は小樽商高の学生であったとき、志賀直哉に読後感を書き送ったこともある。
ところが、1926年、小林多喜二が葉山嘉樹の『淫売婦』を読んで、ブルジョワに対するプロレタリアの階級意識に感動し、そして、「作品の清新さ、その内容にふさわしい「表現」の見事さにびっくりし、「淫売婦」の一巻はどんな意味に於いても、自分にはグアンと来た!」と書き、「この作者の表現様式や技巧は前述の意識を表現するに最も適切である。線が荒い。自由な新鮮な比喩(これが特に著しい)。そして大胆である。空騒ぎにそれでいてなっていない。志賀直哉氏あたりの表現様式と正に対蹠的にある。志賀直哉氏のばかりが絶対的表現ではない」と葉山を絶賛し、多喜二が志賀直哉の影響から、プロレタリア作家葉山嘉樹の影響へと質的に転換していく姿を示していた。
これは、多喜二がプロレタリアへの道に踏み込んだ始めではないかと思う。
そして、同時代のプロレタリア文学の発展はどうだっただろうか?
小林多喜二をはじめとして、日本のプロレタリア文学は、日本の貧しい労働者の立場に立って書かれた文学であり、労働運動が高揚してきた時機に生まれた。そのとき、第一次世界大戦が終わって、ロシア革命などが起き、世界的にも新しい労働運動や民族解放運動が発展していた。日本も、社会主義の春を迎えて、貧しい労働者を救わなければならない時代になった。
しかし、プロレタリア文学が本格的に発展し始めたのは、『種蒔く人』の発刊後なのだ。この雑誌は国際主義と反戦平和を主張していて、労働者のたたかいがたくさん掲載されていた。『種蒔く人』が廃刊せざるをえなくなった時、『文芸戦線』という雑誌はその後継誌として出てきた。その時代には、日本共産党が結成(1922年)されていて、階級文学が明確に確立してきたとも言える。
1928年に、北海道における三·一五事件で、革命的労働者が大検挙され、野蛮なテロによって組織は破壊された。小林多喜二は当時支配階級が革命的労働者に対して行った非道な白テロを曝露し,革命の犠牲と挫けない意気とを「一九二八年三月十五日」という作品に書きあげた。
この一作で、小林多喜二のプロレタリア作家としての方向が決まったといえる。
続いて、1929年『戦旗』の5月号、6月号に小林多喜二の「蟹工船」が掲載されており、ともに、この時期のプロレタリア文学を代表する長編力作として世上の注目を浴び、対立競争状態にあった『文芸戦線』を質量共に圧倒するとともに、プロレタリア文学全体が文学的評価を高め、ブルジョア文壇に対しても無視することのできない地位を獲得することになった。
また、小林多喜二の「蟹工船」は、北洋漁業を舞台にした略奪経済に等しい大資本家の横暴とその下で虐使される労働者の実態を描いていた。当時の日本の貧しい労働者は地獄のような生活をして、苦しい労働条件のもとで膨大な金を儲けている資本家の道具のように虐待されていたという事実を曝露した。
従来の日本文学は、資本主義の矛盾に悩む底辺の人々に、生きる希望や闘う勇気を与えるものではなく、暗い宿命観や退廃的な逃避、あるいは一時的享楽主義などを描いてきた。これに対して、小林多喜二は、貧困、失業、奴隷労働、貧困家庭の児童問題、売春など、資本主義の闇の部分に光を当てて告発し、そして、人々にどう生きるかという問題を明らかにして、プロレタリア文学の新鮮な一面を表した。
それは、小林多喜二文学は日本の革命的文学の伝統の中から誕生してきたことを意味した。
私は、小林多喜二が一つの作品から一つの作品へと常に前進しつづけたプロレタリア作家としての努力は、特別注目すべきだと思う。『種蒔く人』や『文芸戦線』から学んできたことは多喜二にもっとも強く影響した。小説は小樽で銀行に勤めていたときから書き始めていたが、そのときから、小林多喜二の作品は勤労階級の生活の中に根を下ろし、勤労階級の生活の苦痛とその苦痛の社会的要因をはっきり作品に書いて発表した。そのため、それを理由に勤めていた銀行を解雇された。それでもなお、小林多喜二はたたかいを放棄しないで、貧しい労働者のための道に踏み込んでいった。多喜二の文学は、一言で言えば、「階級意識に裏付けられた文字」ということができる。そして、初期のいくつかの短編は、資本主義の本質の構造に切り込み、えぐりだし、人々の前に引きずり出し、その矛盾とたたかう民衆の姿を大胆な比喩表現などで表現し、資本主義社会に対する人道主義的な憤りを示したものである。
2007年2月20日は、小林多喜二が虐殺されてから74年になる。この74年の間に、小林多喜二の小説、評論が集成され、伏字は起こされて、より完璧なかたちで読まれるようになった。小林多喜二は日本の勤労階級の最良の息子であり、世界にも誇る日本の国民的プロレタリア作家、多くの国民に愛され、日本文学の誇りとして、日本労働層、そして中国人民の最も忠実な国際的友人でもある。
小林多喜二の文学は単に「娯楽」のためではなく、近代文学の精神を確立すべきものとして書かれた。そして、小林多喜二は、優れた作家の文章、たとえば志賀直哉の優れた文章などは、ほとんど丸ごと書き写すほどの勉強を重ねて、日本近代文学の精髄を学びとり、作品に生かした。彼の作品には、特に自然を描いた部分のどこを取り上げてもみごとである。「赤い太鼓腹の汽船」、「南京虫のようなランチ」、「パン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……」「ウインチのガラガラという音」、これらは、対象をしっかり観察し、リアリズムの手法を身に着けていないと書けない表現である。また、細部のリアリティが増していた。
小林多喜二は日本共産党、プロレタリア戦士として客観世界を改造するとともに、主観世界をも改造する。彼は当時、資本主義国家プロレタリアートと植民地半植民地人民の解放闘争を勝利できると思っていた。そして、小林多喜二は彼の書いた評論で、各国のプロレタリアの革命と解放は、世界のほかの国のプロレタリアとの友情と団結がなければならないと主張していた。彼の作品の中で、当時の日本共産党の崇高な国際主義精神を真実に概括しただけではなく、同時に中国人民を熱愛する国際主義の友情も示した。
小林多喜二は、真理と理想のために、そして日本帝国主義に反対して、日本のファシストに虐殺された。爾来、日本人民にも、中国人民にも、彼の事績と友情ははるかに偲ばれ、心の中に生かされている。半世紀以上は経っているが、全世界の革命家と革命人民はまだ彼を偲び、特に彼と一緒に帝国主義と戦った中国作家および人民はさらに十分の尊敬の気持ちをもって小林多喜二を懐かしんでいる。世界人民の国際主義の親友として、小林多喜二の文学は21世紀にも輝き続けている。

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[2007/3/9]

白樺文学館 - 小林多喜二の書簡 常時展示中

時代を撃て・多喜二