工場細胞

「工場細胞」
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「工場細胞」 ”The factory cell”

作品紹介

「工場細胞」は、『改造』1930年4月号から6月号までに分載され、16章までを4月号、17草から19章までを5月号、20章から22章までを6月号に掲載しました。当時、かなり高く評価された作品です。

多喜二の「工場細胞」ノート稿にはサブタイトル「職工読本」とあり、題名の傍には「一九二九・一二・一八」起稿、稿末には「一九三〇・一・二二・午後三時了」、「一九三〇・二・一六零時二十五分、訂正了」、「一九三〇・ニ・二四、午後十一時十五分、再訂。」と日付を明記しています。また、「この一篇を『四・一六』の同志森良玄に」とも書き入れています。森良玄は、「三・一五事件」後、小樽の党組織の再建にはたらき、作者とも直接関係のあった人で、ある程度、作中の「河田」のモデルにもなっています。

この作品についての掲載経過は、『改造』編集者の佐藤績にあてた1929年9月27日、1930年1月30日、2月10日、3月3日付の4通の手紙が残っています。 多喜二はこの「工場細胞」の意図について、「共産党とが結びついた「三・一五」以後の日本の左翼運動を描いて居ります。それは、「企業の集中」による一産業資本化の没落を背景にして「工場委員会」の自主化への闘争として描かれています。作品の芸術としての出来ばえ如何はまずとして、この一系列の内容は、未だ他の誰によっても具体的にはかかれなかったと思っているものです」(『小林多喜二全集』全集7巻 30年3月3日付)としています。
なお、ノート稿には、
「訂正の時、河田、森本、お君、三人の、前生、履歴、性格、癖を入れること。会話に北海道をハッキリさせること。女工の集会、男工の集会(細胞の)が必要。政府の労働者教育。文章では常識的な云い方を避けること。」専務の且つてを思って職工の中に動揺が起る事、1、ユーモラス、機械の描写、スパイになる動機(・思想的ギャップ、労農派的、・個人的性格、・生活難)、1、偽マン的な工・委のシーンを描くこと。」など作者の覚書きを残していますが、その後に手を入れる機会はなかったようです。

手塚英孝『小林多喜二』は、「『工場細胞』の舞台になっている『H・S工場』は、小樽の北海製缶工場といわれている。北海製缶は、当時北洋漁業を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社で、従業員800名、年産1億缶の小樽ではもっとも大きな近代的な工場であった。」としています。

しかし、「北海製罐」の正式な社名は、「北海製罐倉庫株式会社」です。資本金100万円で1921年(大正10) に創立、1927年(昭和2)にアメリカン・キャン社よりロールフォーム自動製罐機およびキャンコシーマーを購入。1935年(昭和9)練乳用自動ミルク缶製缶機械を設置。1941年(昭和16)製缶業者8社大合同により新たに東洋製缶(株)設立(旧北海製缶倉庫(株)は小樽工場となる)。1948年(昭和23)過度の経済力集中排除法に基づき、経済力集中企業に指定される。1950年(昭和25)企業再建整備計画により小樽工場およびその付属設備を分離し北海製缶(株)を創立した、と同社ホームページにあります。

「工場細胞」が書かれたのは、全国的にも大企業内の工場細胞(共産党の組織)が、まだきわめてまれな時代でした。この作品はこうした時期に書かれたものです。

工場内の取材には、長年この工場の労働者だった伊藤信二が協力しました。伊藤は、「三・一五事件」で検挙されたことによって工場を解雇されて後は、全小樽労働組合の書記をしていました。また、ナップの小樽支部に加わっていた詩人でもありました。多喜二はさらに、製缶工場の労働者からも直接取材しています。ノート稿には、機械工具名、工場略図、職制、配置人員表などの覚え書きが残されています。



●発表当時の作品評価
宮本顕治はその月の「文芸時評1」で、10人近い批評家が「工場細胞」をとりあげていることを紹介、プロレタリア文学運動内部での波紋のひろがりに注目し、西田伊作「二人の作家」(『プロレタリア文学』30/7月号)で「ともすれば殻のつく作家の型を破って「工場細胞」を仕上げてしまった」、武田麟太郎は「告別」(『プロレタリア文学』33/4・5合併号)で「「工場細胞」を読み、その力に圧倒されて、暫く小説が恐ろしくて書けなかった」と述べていたことがわかります。

海外の反響としては、30年の11月にソ連・ハリコフで、22カ国から約50人の作家・評論家が集まって開催された「革命作家の第2回国際会議」で多喜二の「工場細胞」をとりあげています。日本の作家同盟から直接代表を送ることはできない時代でしたので、この会議にはベルリンに滞在していた藤森成吉と勝本清一郎がひそかに日本代表として出席しました。

同会議では、ソ連、ドイツ、イギリス、フランスの各文学委員会とともに日本文学委員会がひらかれ、日本のプロレタリア文学運動の歴史と現状の報告にもとづいて、討論と決議がおこなわれました。日本の文学運動は、それまでヨーロッパ諸国にはよく知られていなかったこともあって大きな反響と注目をもって迎えられ、ドイツとともに高い評価を受けました。

日本文学委員会は、決議のなかで多喜二の「工場細胞」については、次のように評価しました。
 ―「小林多喜二の中篇小説『工場細胞』は困難な情勢のさなかにある日本共産党がその地下活動を進めつつ、中でも最も運動の困難な対象とされている『近代的な工場』の一つである或る製罐工場に、産業合理化の過程中たくみに機会を捉えて、遂に非合法工場細胞の根をおろし、やがて公然たる工場代表者会議その他の組織活動にまで全従業員を動員するに至る全経過を内容としたもので、全く輝かしい意図と正しい階級的観点のもとに制作されたということができる」(手塚英孝『小林多喜二』新日本出版社による)
 ※『一九二八年三月十五日』が、ドイツ・プロレタリア作家同盟との協力で、滞在中の国崎定洞の訳で出版されましたが、発売禁止になりました。「蟹工船」「工場細胞」もあわせて翻訳されましたが、出版されたかどうかは確認できていません。

しかし、批判的な評価がなかったわけではありませんでした。

●宮本「細胞の一員となる「お君」の「男工」に対するはすっぱな態度のなかに作者の批判性の欠如、わざとらしさ、唐突な点」がある。

●蔵原惟人「芸術的方法についての感想」前半―「我々は大衆と前衛という一つの重要な問題について語った。だがこのことは他のすべてのことについて言いうる。たとえば我々は我々の政治方針、組織方針についてはっきりとした認識を持っていなければならない。しかもこのことが我々のもつ相当優れた作品にも欠除しているのである。たとえば小林多喜二の『工場細胞』の中には誤ったセクト主義がそのまま肯定的に描かれているし、村山知義の『処女地』の中には作者自身が言っているように部分的に誤った組織方針が無批判に描かれている。等々。勿論、運動全体が誤っていた時に、作家だけがそこから出て、それを批判的に描くことはきわめて困難であろう。しかしもしも作家が運動の単なる傍観者でなくて、その積極的参加者であり、しかも現実の微細な動きを見、その微細な否定的部分までをも感得しうる者でうるならば(プロレタリア作家はかくのごときものとならなければならないのであるが)、彼は、それに対する批判がすでに始められた時、ただちにそれを取り上げて、率先してこれを自己の芸術の中に具像化しうるはずである。しかも、ここで指摘しておかなくてはならないのは小林の『工場細胞』や村山の『処女地』は」政治および組織方針のセクト主義や、ご都合主義がすでに批判しはじめられた時に現れたということである。しかしこれを埋め合わすためには、作家、芸術家は、現実の表面を撫でまわしているだけでなく、その深奥に徹することが必要であり、それをなしうるためには彼は実践の運動と密接に結びつくことが必要である。」(『ナップ』1931年9月号)

●小宮山明敏「小林多喜二論」(1931.11)=「この『工場細胞』には重大な欠陥があると称せられている。即ち、党はその党員獲得の方法として、小林のこの中編前半にみられるが如き個人的会話に依る説得獲得の方法は、これを右翼的偏向として・・・」「従来よりもより正確に党の観点に立つべきである」

多喜二自身は、「「工場細胞」を含め、われわれの殆どすべての作品が、生きた現実を描いているのではなしに、その現実の最大公約数しかえがいていないということを発見した」(「『静かなるドン』の教訓」)と自省しています。


「工場細胞」の第二部として書かれた「オルグ」は、「工場細胞」の第二部として1930年にノート稿が作られ、1931年4月に脱稿した158枚の中編小説です。発表は『改造』1931年5月号。
1930年のメーデー闘争にかかわる森本、お君、お芳、河田、石川、専務アナーキストなどの姿をY市の「N・S製罐」から「金菱製罐」への再編を、地下に沈んで工場の組織の仕事に働いているオルグの生活を、弾圧を受けて壊滅に瀕した「金菱製罐工場」の組織の再建強化の過程と結びつけて描き出そうと試みた作です。小説の事件としては、「メーデー闘争」を持ってきて焦点とし、それを描き進めて行く過程で、主題を具体化する方法をとっています。また、この作のモチーフとして、「副次的なことだが、この小説が予め5月に発表されることになっていたので、特に「メーデー闘争」を取り上げることにした。プロレタリア作品としてはこういうことも大切ではないかと思う。」(「小説作法」1931/4/30)、「「わが方針書」(『読売新聞』 31/3月24、25、27、28日号)にそって書いたプロットに富んだ作品」、ともしています。

多喜二の自己評価としての言葉には、「転形期の人々」の創作にあたって」―固定化一様化の代表作には「オルグ」があり、日常生活的さ末的なものとしては「独房」があった。で此等の作の誤った傾向を清算しつつ、新しい段階の指導精神によって書いているのが「転形期の人々」である。此の作品では右の三つの観点を批判し乍ら一つの時代を書いてゆく積もりだ。例えば小樽に於て、組合、学聯、工場、ゼネスト等の中に、山川イズムが没落して福本イズムが如何にして起こったか、又それが如何にして再び没落したか等々。兎に角此の作で僕は、時代を概括した、時代に透明したものを書きたい、今迄の作品になかった労働者農民の真実に働いている、或いは食っている場面を描きたいという考えでいる。又かかるタイプを書き示すことは不必要なことではないと思う。」(1932/2『短唱』)があります。

「オルグ」への同時代の評価としては、

●川端康成は文芸時評「新人才華」(『新潮』昭和4(1929)年9月号)で、「昭和五年の文壇についての予想ほど楽しい予想は、近年なかろうと思はれる。まづ第一に、新人の群れが花々しく登場するであろう。新人とは、つまり無名作家から新進作家になりつつある人達のことであって、彼等の名が新しいばかりではなく、いつも文学の新しい傾向は、彼等が関札所として、持ってくるものである。昭和四年の創作壇では、小林多喜二、岩藤雪夫氏、徳永直氏、武田麟太郎氏、中本たか子氏その他のプロレタリア派の新人達の花々しい姿が目だった。これら諸氏の活動は勿論五年にも続くだろう。それと同時にいはゆる芸術派の新人達も花々しく進出して、この新しい芸術派の勃興が、昭和五年を特色づけるだろう。」とし、 また、1930年「創作界の一年」(11月13日『昭和6年新文芸日記』)では、「戦旗派では、徳永直氏の「失業都市」(中央公論2月号)、「嵐を衝いて」(中央公論9月号)、「赤色スポーツ」改造9月号)、小林多喜二氏の「工場細胞」(改造4−6)、村山知義の戯曲「スパイと踊子」(改造3月号)、「日清戦争」(中央公論5月号)、藤森成吉氏の戯曲「蜂起」(改造1月号)なぞは、いづれも力作であり、その派の文学として進歩を見せた。」としています。

さらに、「文芸時評5月」(『新潮』1931年5月2日)では、―「ナップの作家を眺めると、彼らは確かに進歩しつつあるにはちがいないが、その進歩はナップの方針の歩みにつれての彼等の社会観の歩みと、通俗的技術の熟練とに過ぎなくて、作家としての個性の発展はほとんどないやうに、私は思われてならないのである。あいまいな詭弁のやうであるが、彼等のあれほどの熱情の持続にもかかわらず、彼等の作品の響きが深まってゆかないのはなんのゆゑか。例へば今月の作品でも、鹿地亘氏の「敗れて帰る」(新潮)や立野信之氏の「四日間」(中央公論)なぞは、余り立派な方針が作品に役だったとも見えない。…それに比べると、小林多喜二氏の「オルグ」(改造)は、微塵の油断もなく、熱情を整へて、方針を自己の拍車とし切ってゐるし、複雑な材料を立派に組み立ててゐる。」と多喜二の作にたびたび言及し、積極的な評価を与えています。

そのほかでは、ナップ系批評家が、おおむね有意義な仕事と肯定したのに対し、青野季吉や間宮茂輔などの文戦系批評家は、「丹念に『調べた』」力作としながらも、当時の政治情勢で、非合法運動(共産党のこと)を主題に扱うことの「政治的可否」に疑問がある(「実践的文学論」)、「前衛としての運動方法の先鋭化ではなく労働大衆に対する正しい観察と具体化でなければならぬ」(『文芸戦線』5月号時評)などと批判的な批評をしています。  ブルジョア文壇では『新潮』5月号・合評会が興味本位に批評したなかで、阿部知二が「堂々たる力作」(『三田文学』6月号時評)と絶賛していることが眼にとまります。



●トピック
鹿児島・薩摩川内市に多喜二肉筆原稿―改造社山本實彦資料寄贈される  鹿児島県・薩摩川内市にこのほど小林多喜二「工場細胞」の肉筆原稿などが寄贈され、これをもとに同市は「川内まごころ文学館」を平成15年度に開館しました。同原稿は「山本實彦関係資料」に含まれるもので、同市出身で1919年に改造社を創立し、大正から昭和にかけてのジャーナリズムをリードした総合雑誌の一つ『改造』を発行責任者となった山本實彦の旧蔵品。實彦の長男で現在アメリカ在住の山本俊太が、「父親の郷里で役立てて」と同市に関係資料約920点を寄贈したものです。 寄贈された肉筆原稿は、小林多喜二「工場細胞」(『改造』昭和5年4月から6月号)芥川龍之介「或る旧友への手記」(同誌昭和2年9月号)、同「続西方の人」武者小路実篤「或る男」(同誌大正10年7月から12月号)をはじめ、有島武郎「御柱」、横光利一「悪魔」、火野葦平「海南島記」など88件89点、堺利彦、中條百合子、志賀直哉、川端康成、パール・バックなど214件574点、『改造』誌に使用された図案関係73件574点など。
同市にはすでに、有島武郎と有島生馬の二人の兄を持つ里見クの3人を中心とした資料も寄贈されています。

問い合わせ等は、 川内まごころ文学館〒895‐0072 鹿児島県薩摩川内市中郷2丁目2番6号 TEL 0996-25-5580 FAX 0996-20-0818 E-mail: magokoro@sendai-net.jpへ。