大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンとモリス」

昭和二年二月二十七日 小樽新聞朝刊第六面

(記事本文と画像)

自分はラスキンとモリスの事に就いて何か云い得る資格のある人は日本に一人位しかいないと思っている。経済学者が、例えば価値論の定義のこの一字が余計だ とか余計でないとかと云う式にやって行ったって、ラスキンとモリスの真髄はつかめない。例えそれが「社会思想家としての」と範囲を限ったって残念ながら駄 目らしい。ラスキンは「近世画家」の著者であり、モリスは「赤い家」を作った詩人ではないか。が、ある人が既に試みてるように、所謂芸術家がラスキンとモ リスを議論しようとしても、その芸術家であると同時に異なる他の半面を持ち、その二つがピタリくっついている二人に対しては、どうしてもかゆい所に手がと どかぬ気がするのだ。自分には矢張り、日本にはこの二人を論じ尽せる人は一人位しかいないんではないか、と思うのだ。そしてその一人というのが大熊信行先 生である、と思う。そうなのだ。
  小樽高商にお出になった頃の先生の室には、レンブラントやゴッホ、セザンヌの原色版の画がかかっていた。曾つて先生は自分に武者小路氏の「その妹」を朗読 して聞かしてくれた事もあった。又ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」に対して、その最も芸術的、宗教的な解釈をされた「神聖な記憶」(恐らくこうい う独創的な見方をした人を知らない。)を雑誌「思想」に発表されたこともある。と同時に――と同時に経済学者としての先生が学校の講座であの経済価値論を 講義するに当り示された遠大な抱負と情熱を忘れることは出来ない。先生の又この方面に対する敬虔な気持は「アダム・スミスの漫画化」についても直ちに知ら れることゝ思う。
 先生に於ては、この二つのサイドがピッチリ有機的な関係でくっついているのである。実際「この資格」を持つことなしには、モリスもラスキンも論ずること は「絶対に」不可能である。今度新潮社から出版された先生の「社会思想家としてのラスキンとモリス」(附録に、「アダム・スミスの漫画化」を加う。)はこ れが商大の「商学研究」に発表されたとき、確かにこの方面の先駆的研究として重きをなしたことは事実である。
  自分はこの著書の内容について何かを云う僭越なんかは持っていない。たゞ、小樽においでの時、自分達を啓発して下すった大熊先生の日本的名著と云って決し て過言でないこの本が、一人にでも多く読まれ、そして親しまれることを願うものである。以上。(定価一円五十銭、新潮社版)


小樽新聞 昭和二年二月二十七日朝刊第七面


(※ 画像は、国立国会図書館所蔵のマイクロフィルムより複写、引用)

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