月曜文藝 十三の南京玉―あぐらをかいての話―

昭和二年五月二十三日 小樽新聞朝刊第五面

(記事本文と画像)
〇の一
此頃ハァディの短篇小説を十ばかり纏めて読む機会を持った。そのうちで良かったように思えたのは「悲しみの軽騎兵」「つかね髪」「幻の女」「町の人々」 「其夜の晩餐」などだった。いずれも読んだあとで、二日も三日も憂欝にさせられるたまらないものばかりだった。ハァディは人生の一断面を示すということで はなしに筋書風に書いてゆく。そして時には作っているなあと思われるが、非常に偶然なつまずきで人生が変にひねくれてゆくことが描かれている。それで作者 の態度も従って又其の事件も極めてアイロニカルで、殆んど皆一生を棒にふる話ばかりである。そしてそれが皆一面的な男と女との関係ばかりなので、纏めて読 むと、又かという風に鼻についてくる傾きがある。が、流石にウェセックスの詩人は自然描写に秀れていると思った。今でもありありと眼の前にその一つ一つが 思い浮べ得る程である。――そして暗欝で絶望的でセンチメンタルで冷酷で……この混合的余韻が全体的な作品の印象として来る。

〇の二
が、ハァディのものは「これからの」小説という処が無い気がする。ああいう作品の作者が気も狂わずに八十何歳の今まで生きているのは自分にはどうしても疑 問である。

〇の三
自分はチャップリンの「巴里の女性」が来たとき一週間のうち三回も行った。「黄金狂」は二回見た。あの素晴らしいチャップリンの芸術にすっかり自分は傾倒 してしまった。所が、此頃トマス・ハァディのものを読んでいるうちに、チャップリンのものと馬鹿に「同じもの」があるのに気付いた。その人生観の上でそっ くりそのままの所が沢山あるし、「巴里の女性」「黄金狂」に取り入れられている一つ一つの情景でさえ同じもののあるのを知った。単なる暗合だろうか。 チャップリンの愛読書の中にハァディのものがあるのではないだろうか――面白い発見ではないか、と自分は思っている。

〇の四
映画「久造老人」を見てから、街を歩いてゆく時に、その角に立ってビラを配っている人達に対して知らん振をして行き過ぎたりしないで、丁寧に貰ってゆくと いう風になった、と友達が話した。修身の「ねばならぬ」からはとても出てこぬ気持だ。
 そう云えば、しッ面倒臭い議論よりは、まず! (まず、である。)あの「淫売婦」や「セメント樽」によって無産階級意識を(頭からではなしに)胸から把 握した人達が素晴らしく多いのを知って、そうかと思った。――だが、これは重大な問題を呈示している。
〇の五
「咋日迄歴史が進展して来た事を認めながら、もう今日で歴史が永久に停ってしまったように信じる」連中がある。
 この社会制度はどう動かすにも動かしようのないものだ、利己心は人間固有のものだ、正義人道は絶対の真理だ、何がどうなっても変るまい……という風に!
 芸術の分野にだけに問題を限っても、芸術は生活の余裕から生れるものだ、本来回顧的なものだ、美意識は今のままどう変るものか、絶対不変のものだ……と いう風に! 面白いものだ。(未完)

昭和二年五月二十三日小樽新聞第五面


(※ 画像は、国立国会図書館所蔵のマイクロフィルムより複写、引用)

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時代を撃て・多喜二